ボルヘス「薔薇色の街角の男」

 『汚辱の世界史』に収録されているボルヘスの掌編「薔薇色の街角の男」では、話者であるならず者あがりらしき無名の男による回顧的な述懐が面談相手である聞き手「旦那」(作者ボルヘス)にむかって語りかけられる、という一人称による説話的なスタイルが採用されている。ブエノスアイレスの郊外、場末の町の夜の暗闇と酒場の熱気のなかでかつて起こったとされるこの出来事の回想は、三人の男と一人の女をおもな登場人物として配役して演じられたある一夜の刃傷沙汰をめぐる、その一当事者による個人的な報告のあらましというかたちをとって聴き取られることになる。語り口のはしばしからは、この回想の主題になっている出来事が、語りの現在から見て、もう随分前のことであることが確認できるだろう。三人の男と一人の女を巻き込んで起こったそこでの事件のあらましはけっして複雑なものではない。話者によって語られる事件の具体的で顕示的な内容の側面にかんしては、それはごくありふれた、三面記事的と称してもよさようなゴシップ的エピソードの暴露話、出来事の真相の長年月を経た後の後日譚といったものの域を出るものではない。詳細は省くけどそれは要するに、「美女」、「ナイフと決闘」、「血の報復」、「殺人」といったごく限られた単語の列挙でその概要がおおむね想定できてしまうようなたぐいの、夜の酒場でいつでも起こりうる平凡な凶行のありふれた一サンプルをかたちづくっている。実態はそれ以上のものではない。そこにはおそらく、ゴシップがゴシップたる所以でもあるような、出来事に必須の謎めいた部分、人をそこに惹きつけながら同時に人をそこから遠ざけもする、迷宮的な、出来事の空無でありつづける核心のような、条件のいわばの真空的な要項すらが備わっているだろう。
 酒場に集う誰かれを例外なく魅了する町のダンディ、若造どもと女たちの独占者、夜の街に君臨するナイフの殺戮者であるような男の前に、もう一人のナイフを携えた男がギターの賑やかな伴奏とともに突如現れる。新顔の男は街の小さなボスに決闘を申し込む。ボスはこの果し合いから、彼の命であるようなナイフを川に放り投げてすごすごと逃げ出してしまう。はったりと「土性骨」が暴露した瞬間だ。屈強な新参者の男が気骨を示して新たに君臨し、街で一番の美女を前の所有者のもとからさらってゆく。彼はその後どうなったか。もう一度酒場の扉をくぐったとき、よそ者の男は胸にナイフの致命傷を受けた死体となって戻ってくる。下手人はついに知れることがない。街一番の美女、強者のトロフィーでもあるようなあの女は、その場からそっと消えている。別の男のもとに身を寄せることに決めたのだろう、おそらく。
 語られた過去の出来事の全容として一篇を構成するエピソードの知りうることの側面のすべては、以上のような要約としてほぼ過不足なく述べることができるだろう(要約の不手際にかんする異議は認めるけれども)。……これに対して、語ることの現在進行形のイメージの推移は過不足なく語られたはずのこのエピソードに、剰余と不足を付け足すようにして不純な介入を試みるものであるだろう。語られた内容にかんして知られていなかったものが、語りの遂行において算出されようとしている。つまり、語りうる出来事の内容と語ることのイメージの行使の折り目に、一人称(「あっし」)が滑り込むようにして三人目の男として介入しており、この介入は、語られた内容に不足の項目を決定的に付け足すと同時に(真の殺害者は誰か?というイメージの欠落を浮き彫りにする未解明の謎として)、しかし、出来事の場に対して剰余の人員、員数外の人物の横顔をひそかに告発(ないしは告解、告白)するものとして、語りの次元を事件の意味を探し求める過剰な解釈の場へと強引に引き上げることになる(殺害者の残した物的であり状況的でもあるような幾つかの証拠や証言であり、また意味するものでもあるような犯行の痕跡が染みついた付着物を、こうして拾い上げ、数え上げること)。一人称「あっし」の語り口の中に、聴き取り手はこうした幾つものフェティッシュ的な言説の滲みを見出していくことになるはずだ。「言説の滲み」といったものは、作品の読み手に対してすなわち以下のような証拠を語りのなかから引き出すことを強い、それらの案件を手がかりに立てられる問いを納得のいくよう充分な検証に付するよう求めるような説話的な一種の気がかりを引き起こす文言として書き付けられているもののことだ。たとえば、《会ったのは三度っきり、それも同じ一晩のこと》という語り手の言明はその語りの内容、そこで描かれた情景の描写とどのように整合するものだろうか? また、牧童小屋の窓に揺れた灯りはどのような意味をもつシグナルとして解釈されるべきだろうか? あるいは、話者「あっし」のチョッキの左脇に隠されていたナイフが《まっさらという感じで、人を殺った形跡なんか全然ない》ことの確認、この唐突な不在証明の自己確信それ自体が語りの内部で象る陥没した影の形象、人物や行為の不在であるかぎりでの不在の営みとプロフィールの雛形ともなることの意味を、私たち読み手はどのように解釈するべきであるか?等々。
 話者「あっし」が凶行の主体であることは、そこで語られた出来事の内容において知りうるものとなるのではない。そうではなく、一人の殺人者が過去のある出来事において存在したということなのではなく、この現在における彼の語りにおいて、その字義どおりに読まれ、聴き取られるかぎりの言葉の内容においてはけっして見出されることのない殺害を追う語りの言葉の推移のなかでのみ、一人の殺人者の横顔が知りえない凶事の核の陰画そのものとしてイメージのなかに浮かび上がろうとしている。過去に起こった殺人事件の真相の証明や真犯人の摘発が問題なのではなく、殺害はまさに今推移しつつあるこの筆の先、作者ボルヘスによる運動体としての言葉の運用の場において、その不在であるイメージをまざまざと喚起し、つまりまさに今ここで、私たちの眼前で、イメージの殺害という凶事が行われつつある、そう言ってよいだろう。そのときペンはナイフの等価物となる。凶事が呼んだ血だまりは紙の上に滲むインクの滴りと見分けがたいまでに酷似したものとなる。ただしこのペン=ナイフ、インク=血だまりによる類比物の生成は、不在であるかぎりのイメージ、イメージの殺害の痕跡のイメージをこそ言葉のなかに呼び込むものとなるだろう。私たちはそこに、磨き上げられたばかりであるかのような輝きを放つ、一本のまっさらなナイフだけを認めることになる。しかしながら、唯一それこそが殺害の動かぬ証拠となるだろう。

(……)小屋に入る前に、あっしはチョッキに手をつっこみ──左のこの腋のところですがね。ナイフはいつもここに隠しとくんです──もういっぺんナイフを取り出しました。中身をゆっくりとあらためたんですが、まっさらという感じで、人を殺った形跡なんか全然ない。じじつ、血はどこにもついていませんでした。