ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』

 今週は久しぶりに小説など読んでみた。けっこうのあいだ積みっぱなしになってたナボコフの『カメラ・オブスクーラ』。ナボコフはじめて読んだけど良かった。感想を書いておきたいんだけど、この訳者の貝澤哉という人がとても眼力のある読み手で、おもしろそうなことは解説の文章でぜんぶ語っちゃってくれてる。つまり、作品の道具立てから人物の造形、筋の展開にまで周到に組みこまれている見ることと見えないことというテーマの一貫性と、もろもろそこから間違いなく帰結することになる、失明して光を失った主人公・クレッチマーの処遇=作家の記す小説の描写にしたがい言葉の暗闇のなかで虚像を見つめることになる作品の読み手の読書経験、という、小説を読むことに本質的な受動性の等式を取り出してみせる手際なんかは、これはさすがに研究者の着眼点だなと感じた。小説の描写の言葉は対象のイメージを見ることだったり、見ることのできるものを再現的に模倣することに深くかかわるものではあるけれど、むろんそれ自体は見ることに固有の対象なんかではなく、その作用は正確には、見ることのできるものがあたかもそこにあるかのように「見せる」というところにあるんだろう。本物と称して相手に贋物を握らせるというような訳合いから、それを広い意味での隠喩的な詐術の一種とみなしてもいい。ナボコフを称する「言葉の魔術師」という異名とは、ここでは「言葉の詐欺師」と言ってもおんなじことだろう。対象とイメージとのあいだを媒介するこのまったく三百代言的というか香具師的な働きこそが小説の描写に本源的なものであって、ナボコフの筆はあやまたずそこんとこを狙いうっている。詐欺師が詐欺を行いながら、その詐欺の手口いっさいを逐一披露してみせている。光を失い、ただひとりこころのよすがにする若い愛人(マグダ)にも悪辣な仕方で裏切られており、彼女の情夫である男(ホーン)の差配で山荘に幽閉されているような状態の主人公を描いた場面。(同じ箇所を訳者解説でも引用してる)。
 
≪しかしクレッチマーは、最初に家をひとしきり探検したあとは部屋の間取りには興味がなくなり、そのかわり、自分の寝室と書斎については完璧に頭に入れた。マグダは彼にその部屋の色彩をひとつ残らず描写してやった。青い壁紙、電気スタンドの黄色い傘──けれど、ホーンにそそのかされて、どの色もわざとちがう色に変えられていた──ホーンには、盲目の男が自分の住む小さな世界を、彼つまりホーンが言ったとおりに想像するのが愉快なことに思えたのだ。≫

 ホーン(マグダ)とクレッチマーとの関係が、描写的な言葉を介した交わりといったものを類比的な結び目として、作家と読み手との関係へと重ね書きされてるだろう。この場面は何かにかんする個別の嘘のイメージというよりも、イメージそのものの本来的で欺瞞的な効果(プラトンが告発するような真理に対する欺きの効果)がまさにクレッチマーの脳髄がイメージのスクリーンの襞のあいだに展開する「小さな世界」に波及してゆく、その瞬間を外側からの視点で描いていてとても印象的だ。要するにナボコフはここで、描写の言葉の働きである「何かを見せる」という営みそのものの現場を対象描写の水準で描いて見せていて(とても「絵になる」、まるで映画のワンシーンか寓意的な絵画の描く情景みたいにしてまざまざと目に浮かぶかのように、とても印象的に描いて見せている)、その描写をつうじて、文学作品に固有のミディアムである言葉という質に対する注視を読み手に強く促している。イメージを見ること、何かが見えるということに対する、暗闇のなかでの盲目的な事態、イメージが見えないこと、というような視覚の欠如的な様態が問われてるんじゃなくて、完全に光を失ってもなお何ものかを見てしまうことを可能にしている言葉という小説のミディアムのもつ「見せること」という働き、欺くことや捏造することとまったく同義であるこのような作用こそが、この作品での明視の対象になってるんじゃないだろうか(ひょっとしたら『イメージの運命』のランシエールナボコフのこの作品をこそ、そこで自説を展開するさいに真っ先に参照してもよかったんじゃないかな、とも思える。言及してたっけか?)。
 たとえばマネの絵画を読み解くフーコーは、古典的な絵画作品がひそかに行使してきた隠蔽的だったり捏造的だったり眩惑的だったりする効果、「オブジェとしてのタブロー」であるようなキャンバスのもつ空間的で物質的な特質から鑑賞者の目を逸らすことに奉仕してきた様々な効果といったものに対して、マネの絵画がその実践を通じてどんな具合にこれらの錯覚、欺きのさらに裏をかいたのか、というような側面に注視を促していたはずだ。これは要するに、何かの描写とか何らかの模倣とかいった表現の行使を基底の部分で可能にし、条件づけてもいる隠された素材(ミディアム)の存在を、条件づけられた当の表現物の内部にこっそり盛り込むことによって表象作用の突き当たる不透明なままそびえる壁のような限界を鑑賞者の知覚に対し間近に突きつけるということなんだろう。フーコーの語るマネとは、対象の描写だとか実在する事物の再現だとかを放棄することなく、あくまでその表現の内部で、その表現を通じて、鑑賞者に対し、見えることを可能にしているミディアムの見せることの内実を見ることの経験のなかで突きつけるという感じで、他方でグリーンバーグの語るピカソだとかブラックという画家なんかのキュビスムの実践はと言えば……(ゴニョゴョ)、──は、よく理解できてないからおいといて、とにかく、表現という条件づけられたものを通じて、その内部で、その条件そのものの審級を見えるように、あるいは語られるままのとおり呼び出すっていう、このリテラルな振る舞いにおいて、(フーコーの見る、語る)マネとこの小説でのナボコフとのジャンルの相違に無関与な深い共通点を見出せるようにも思える。描かれた絵の内容において呼び出され反復されるキャンバス自体の垂直線や水平線の想起があるように、書かれた言葉の描写する情景においてこだまを返してくるようなミディアムとしての言語の指示的な働きがあるようにも思える。
 ありていに言っちゃえば、マネの絵もナボコフの小説も、すごく素朴な鑑賞のレベルで、これひたすら、めちゃくちゃおもしろい。絵画も小説も、たんに娯楽や気散じとか教養を身につけるだとかあるいは精神を涵養するだとか社交の一環だとかいった、どうでもいい、悶えるほどくだらないレベルで享受されることからはついにまぬかれないわけで、そしてマネもナボコフも、そのどうでもいい百遍死ねるほどくだらんレベルに対して受け皿になる部分を自分の作品においてけっして否定はしていないはずだ。このあたりの割り切り方、対応のおおらかさなんかが、文学史、美術史双方のそれ以降のさらにとんがった作品なんかとは異なる点なのかなとも感じる。グリーンバーグの語る美術史なんかをぼんやり聴いててもそんな気がするし、もちろん小説だって同じような急進的というか前衛的な先鋭化の過程を文学史のなかで経験することになるだろう。つまり、たとえばロブ=グリエみたいな作家のエクリチュールが可能になるわけだ。見えるものを見せている振る舞いを読ませるんじゃなくて、見えるものの渦巻きみたいな流れのなかで読むことそれ自体をひたすら読ませるような、ミディアムとしての言葉の実質に読み手を巻き込むかのような、たとえば『迷路のなかで』みたいな作品が現われることになるわけだろう。絵画が奥行きのイリュージョンのもとに隠されていた自身のミディアムとしての平面を再び見出したように、文学の言語もまた、ロブ=グリエの人気のない街灯に照らし出される夜の雪の街路の上でなのか、クロード・シモンの競走馬たちがレースコースを彩るとりどりの色斑の移動としてなのか、はたまたムージルの暗闇の部屋の中で交わされる男女の会話の中でなのか、あるいはルーセルの透明な液体に浸されたガラスの中の奇妙なオブジェの運動においてなのか、あるいはまたフローベールの採取する紋切り型の標本の文字の連なりの上でなのか、またはけっきょくマラルメの詩とともになのか、とにかくそんなようなミディアムの物質性といったものに突き当たり、それをもう一度見出すわけだろう。と思った。