手刀で気絶(禁固刑)

 フーコーのマネについての本を読んだ流れで、今週は、先日購入したグリーンバーグの評論集を読んでみたりした。まるで聞いたことのない美術界隈の固有名が文章のなかでばんばん飛び交ってて、読む前から予想はしていたけど、まあほぼ何を言ってるのか理解できんかったよ。フーコーのマネにかんする講演の本の方だと題材になってる絵の図版を収録してくれていてその頁を参照しながら論者がどんなことをそこで語ってるのか、絵画についてもマネについても何も知らない人間でもふんふん頷きながらなんとか想像することくらいはできたんだけど、こっちの本の方はちょっと専門的すぎて論旨についてくことができなかった。めちゃくちゃおもしろそうなことを書いてそうなだけに無念ではある。いちげんの門外漢なりにこの本の論考からお土産になりそうなものをまったく持って帰れなかったってわけでもない。作品のミディアムというような、ジャンルに内在的な自己批評的な視点は何を考えるうえでも重要なものになるだろうなと思った。フーコーのマネ論での、キャンバスのもつ空間性だとかそれに対する照明や光源の関係のあり方なんかにかんする議論にも通底するものなんだろうけど、ここらへんはマンガについてぼんやり考えてたときになかば無自覚に了解してたような気がするもので、でもあらためてしっかりと念頭に叩き込んどかなきゃだわって感じだった。ちょっとこころあたりがあるのは、三好銀の『海辺へ行く道 夏』をはじめて読んだときのあの直線とか枠線の気がかりな感触だとか(マネの「フォリー・ベルジェールのバー」での鑑賞者の曖昧な位置を指摘するフーコーの議論が参考になるんじゃないだろか?)、画面のなかで背中を見せて後ろ向きに立ち自分の視線を読み手から隠している三好銀の描く作中人物の姿だとか、あるいは中野シズカの作品を読むさいにあわせて考えてみたい、マンガの紙面とスクリーントーンとの関係だとか。作品を支持するミディアムって考え方を導くとわりとクリアに見えてくるものが多そうな気もする。ただ、絵画におけるミディアムとマンガ作品を手に取るさいのそれとは決定的に異なるところがあるのはもちろんのことで、つまりわれわれがふつうマンガを読むさいは作家が現に手を入れた生の原稿、媒体そのものを見るんじゃなくて、誌面なり単行本なりといった形でさまざまな変形や加工を施された後の複製を見ることになるって点は押さえとかなきゃならないだろう。この作品の受容におけるミディアムの変質的な特性みたいなものはマンガについて考えるさいの何かひとつのきっかけになりそうな気もする。作品を発表するメディアとしての媒体=誌面のサイズに応じてあらかじめミディアムとしての媒体=原稿のサイズが決定的に規定されているって点は大きいんじゃなかろうか。グリーンバーグによればモダニズムの芸術の唯一の指針は作品のミディアムに対する自己批評的な意識のフォルマリスティックな先鋭化みたいなところにあるらしいけど、原理的に一点ものとしては自分を開くことができない、不可避的に複製化をこうむる運命にあるかぎりでのマンガ作品には、ミディアムに対する純粋性だとか抽象性の周到な手続きを半ば強引になし崩しにしかかってくるメディアとしての「誌面の紙面」による介入がつねに働きつづけているはずで、そこらへんのさまざまな駆け引きみたいな部分が作品のなかに見出せたとしたらこれはおもしろいんじゃないかな、とも思う。(……そういや大友克洋の原画展が開催されるらしいね。ニュースの映像で『AKIRA』とか『童夢』のよく見知ってる絵の描かれた生原稿のページが映し出されてたけど、やっぱそれを見た瞬間、無条件に血がたぎるような感覚を覚えてしまった。マンガにはアウラが引き剥がされてるみたいなことはそうかんたんには言えないってことが体で理解できる瞬間だったと思う)。

 今週よく聴いた曲。はっぴいえんどで「風をあつめて」。