ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージの前で』

 先週からずっと読んでた本。ここで具体的に取り沙汰されてる美術史についても検討の対象になってる精神分析の理論だったり美術批評の言説なんかについてもほぼまったく知識がないもんだから理解するのに難儀するところが多かったけれど、ともかくはおもしろく読めた。ディディ=ユベルマンの他の著作も読んでみたくなったし、パノフスキーとかカントとか、他にも読んどいたほうがよさそうな読書の筋道をたくさん教わった気がする。とりあえずはパッと手に入りやすいパノフスキーの『イコノロジー研究』をBK1でポチっといたね。
 だらだら漫然と読んでたんでまだすっきりとは論旨を飲み込めていないんだけど(きっとまた読み直す)、絵画がキャンバスなり板なり壁面なり、そのおのれに固有の平面に描いている表象を宿したイメージの織り目のなかから、異常な「徴候」が飛び出してくる瞬間を指摘するってところはとてもおもしろい。ルネッサンスヴァザーリって美術史家以降、絵画を巡る理論的な言説は「見えるもの」、「見えないもの」、「読めるもの」による一連の表象可能性(その不可能性をも込みで)の包囲網みたいなものを完成させたということなんだけど、ディディ=ユベルマンフロイト-ラカン経由の「徴候」って概念によって、この絵画の張り巡らせる滑らかな表象の編み目を基底材とか絵の具の厚み深みの底から突き破って現われようとする現働状態にある不吉な力みたいなものを「視覚的なもの」として指摘して、美術史が仮構する穏やかな表面に繕いようのないまま開いたままの血を流す傷口を見出す、という感じなんだろうか。要するにディディ=ユベルマンはとても人間臭い仕事をしてるんだと思う。具体的な作品分析の対象になってるフラ・アンジェリコの壁画なりフェルメールの絵画なりを通じて、とても「生き生き」とした、生き生きというと語弊があるかもだけど、とにかく切れば血を噴く人間というヴァルネラブルな存在における傷口の痕跡を絵画の色彩のなかに見出すことが眼目であるみたいで、死を前にして自身の有限性に凝視されている人間という存在の致死的な経験の痕跡みたいなものが生き生きと、まざまざと、えぐり出されるって感じじゃないだろうか。そんな風な絵画作品の解釈を全面的に押し出す著者の言説がおもしろくないわけがないし、注目されないわけもない。すくなくとも「波打ち際の砂の表情」みたいな顔をした人間よりもディディ=ユベルマンの人間は受けがよいだろうって気はするし、たとえばジジェクが読まれるみたいにディディ=ユベルマンの著作もみんなに読まれるだろうなとも思う。書くことは明晰だし、(読む人がちゃんと読めば)誤読の余地もない、心強い著者なんだろう。
 最近読んだフーコーマグリット論とのからみでいうと、絵画の細部と「徴候」的現象って問題提起の部分でディディ=ユベルマンもまた「描くことは宣言することではない」ということを直接書きつけていて、この断定の言葉の響きからして、そこじゃ言及こそされていないけど「これはパイプではない」でのフーコーの結論(「描くことは断言することではない」)を思い出さないわけにはいかない。ディディ=ユベルマンによるこの明言は絵画の描く(「描写」する)表象の細部要素とそのモデルを提供した指示物との模倣的で再現的な関係にあってその言表可能で(図像解釈学的にも実証主義的にも、あるいは形而上学的にも)読むことが可能な測度をもつ絵の区域から、どんな具合に反-細部的な単位(「面」って名づけられてる)が「徴候」として鑑賞者に襲いかかってくるのか、というようなことを問題にしている。重要らしいのはここでも、絵の具のもつ不気味な厚みでありその色斑の拡散させる爆発的な意味論的連鎖であり多元決定的に動揺しつづける「あれでもあり、これでもあり、そしてまた……」というような矛盾を知らない愚鈍な無限定性でもあるような、物質としての肉そのものの不透明性、文字どおり「受肉」した絵画みたいな位相にあるらしい。この肉の放つ鈍重な重み、現前する質感みたいな相において模倣芸術である絵画は何かの再現や表象、類似を可能にしそれを引きつけるものであることをやめる(何かを「描写」するものであるという、ある時、ルネッサンス期かな、ともかく明確な意図と徹底した操作のもと日付けを特定できそうな歴史のなかでのある日ある場所でおのれに課せられたこの偽の意匠、仮の衣裳をすっかり脱ぎさって、傷ついた血塗れの裸の姿を鑑賞者の視覚性の経験において曝すことになる、らしい)。この、絵画の細部から溢れ出すもの、「面」として言表行為を危険に曝すもの、まったく「読めないもの」というよりもむしろ「読み切ることができないもの」としての半ば物質的で半ば意義可能なものの現われ(ミディアムとしての絵の具の色の流れそのものであると同時に聖書釈義や精神分析的解釈といった言説をそれらの真正性への疑いのなかでではあれ、ともかく受け入れうるもの)において、類似や模倣といった古い芸術概念が用済みのものとして脇に置かれることになる。または類似の概念はその機能の不能を再確認するためだけにディディ=ユベルマンの記述のなかにちょこんと呼ばれる(フェルメールにおける絵の具の血のように赤い色は最低限、絵の具の赤色にしか似ていない、みたいな記述)。問題は明らかに、類似や模倣が可能にした再現的な「描写」のさらに下から現われるものの深みと厚みの次元にあるらしく、肉はここでも口を開けた傷の裂け目から血を流している。生き生きと死につつある者が見出されている。人間は世界の創生この方いつでもどこでだって生きて傷を負って死につづけてるわけだろうから、こんなような視点は人類史的に最強不敗のポジションを保証されてるものだろう。……他方でマグリットの絵のそばに立つフーコーはといえば、これは間違いなく戸惑いまくってる。「描くことは宣言することではない」と断言した者が描くことのなかでその代わりに肉としての実質をもつ主体の傷口に出会うような具合には、何者ともけっして出会うことはない。そこでは死すらがフーコーのもとから無限に遠ざかっていってしまっているかのようだ。かろうじて「これはパイプではない」ってだけは明言しえた者が見出すことになるのは、パイプそっくりの、パイプにしか見えない姿を示す、類似者によるイメージと言表の旋回がかたちづくる迷路のような茫漠とした広がりだけなんだろう。額にかけられた同じ絵の周りをぐるぐる回りつづける人間の姿がなんとなく目に浮かんできて、なぜだろう、涙が出るほど無性に笑えるんですけど。これはもちろんフーコーのことなんじゃないよ、こう書いている、まさに自分のことなんだよ。死なないかぎりは当面どこにも辿り着かない馬鹿げた周回がこうして始まっていたんだよ。
 ……と、そんなことをこの本のことを読みながら考えたり感じたりした。読み損ねてるところもたくさんあるだろうし、おもしろい本だったからもう一回ざっと読んでみようかなと思ってるぜぇ。乙。

 おもしろ音源。ハカン・リドボのDATA80名義による楽曲、「You Are Always On My Mind」。なついね。