ミシェル・フーコー「これはパイプではない」

 iBooks Authorというアップルの提供する新しいサービスが話題になっている。電子書籍を個人レヴェルでかんたんに制作できる支援サービスらしく……おもしろそうだよね。うん。……あれ? 書き始めたはいいがさっそくことばにつまったよ。IT関連の最新情報にもちゃんと目配せできてるぜ!みたいな自分を演出しようかと思ったけど、ごめん、これなんにもわからんわ。なんにも書けることないわ。見栄はってごめん。Mac使ってると利用できるサービスらしいんだけど、MacどころかiPadすらもってなかったわ。せっかく文章書いてるんだから電子書籍ってかたちでもいろんな人にまとめて読んでもらえる機会があるんだったら楽しそうだなって思ったんだけど、Macが無いと駄目なんじゃとたんに敷居が高くなるね。ざんねん。
 今週はフーコーの文章のあいだをうろうろと行ったり来たりしてるうちに漫然と時間だけが過ぎてった気がする。なんかブログにまとめて記事になるようなこと書けるんじゃないかなと考えながらメモなんかも取りつつ「これはパイプではない」とか『言葉と物』の関連しそうな箇所を拾い読みしてたんだけど、けっきょくフーコー以上にうまく論旨をまとめてあらためて書けるなんてことがあるわけでもなく、そこから別の関心を引っ張り出すこともできなかったんで、これは挫折した。だいたい絵画についても絵画の歴史についてもなんもわかってない。すなおに走り書きの板書取りレベルでとどめておくことにする。
 そもそも「これはパイプではない」という文章のどこらへんに関心をもったかというと、フーコーがそこでイメージとテクストとの係わりを表象関係の二元的で透明なあり方から模倣と相似関係による混濁した絡まりあいみたいのもの(ドゥルーズのいうシミュラクルの戯れみたいのもの)として捉え返しているという点につきる。(というか、フーコーはこの短い文章で結局は徹頭徹尾そのことしか語ってないかもだけど)。ベラスケスの「侍女たち」みたいな絵画が表象している古典主義的な表象関係のあり方というものが一方にあって、『言葉と物』のフーコーだと、この絵画の表象している表象関係そのものをほぼ描かれた絵の要素とそれらの配置だけから丹念に読み取っていくわけだけど、文字どおりそこでフーコーは絵のイメージを「読んでいる」わけで、この読まれたイメージを固有名詞のたすけをかりずに(言表を表象機能にすっかりと委ねきってしまうことをなんとか回避しつつ)、しかしテクストのことばのなかにこのイメージとのぎりぎりの紐帯を維持していくことで、書物の言葉を持続する模倣による宙吊り状態みたいなものに託すことになってる。その倫理的といってもいいしすごくマゾヒスティックなものにも見える姿勢は、イメージとテクストが自由に交流する「共通の場」がすでに消滅して久しいっていう強い認識からフーコーに強いられているもので、マグリットの「これはパイプではない」を「読む」この場所においてもほぼ同様の姿勢がつらぬかれてる。ただここでは、(「侍女たち」の読み取りにおけるように)絵に描かれた描写を自身の言葉によって描写(模倣)する、模倣をタブローの上空と自分のテクストの書かれた紙面とのあいだで定まりなく旋回させるという感じではなくって、すでにマグリットの作品がテクストとイメージの関係において遂行している複数の模倣(アナロジーの戯れ)の層をそれらの重なりが描く線にそって一枚いちまい丹念に剥がしていく、という感じになってる。そこから「これはパイプではない」の最後の節における『描くことは断言することではない』という結論が導き出されることになるわけだけど、この文句は「描くことは表象することではない」って言い換えることもできるはずで、つまり描くことは事物とテクストとによってサンドイッチみたいな恰好で垂直にはさまれる表象の二重化したあの透明なあり方とは金輪際関係がないってことを言おうとしているように思える。そのようなイメージと言表との関係を率直に言明しようとすると、フーコーが語っているとおり『これはパイプであるは、まさしくこれはパイプではないになった。』というような否定文の形式で表現するしかないわけだけど、「これはパイプではない」ことのイメージの現われがすでに相似物(相似関係そのものの相似をしるしづけるようなアナロジーの効果を宿したもの)の影のような煙のような反-実在のぎりぎりのポジティビティのもと逆光的に輪郭づけられていることは確かなのだから、そのような言明を、事物やモデルといったものに対する単純な抹消的身振りだとかイメージの充実に単純に対置される言説や言説の機能への否定的契機といったものとして了解するわけにはいかない。言述の内実において否定がほどこされるんじゃなく、たぶん逆のことが言われている。不在や否定のようなものに似た何かがどこかにあるんだとしたら、それはマグリットの絵画のタイトルだとかそのタブロー上に描かれたテクストの領域だとかに指定されてるんじゃなくて、フーコーの言明をも含めたそれらもろもろの言表の水準を条件づけている『「共通の場」の消滅』といった事態にあるんだろう。「共通の場」それ自体がそもそも周到に分離されたテクストとイメージとのあいだの空隙や空虚として不可視の様態で見出されるものだったんだから(この不可視の真っ白な隙間、あるいは奥まった場所に配置された鏡面の反映といった場所において異質なふたつの表象が秘かに、ただし盛んに交流をおこなってた)、その「消滅」はあらためて、不在の埋設として、とか、表象の失調として、とか、あるいはここでのフーコーの口ぶりに倣うなら、「アナロジーの戯れ」といったもの以外としては現われない。「これはパイプではない」っていうマグリットフーコーの言明はだから、否定性のある種すっきりした明快さのもとにではなくイメージのとても混濁した相において追認されることになるんだろう。それをたとえば、ドゥルーズだったらリゾームがうんたらかんたらとか地下におけるシミュラクルの反抗が、とかと称するだろうし、あるいはラクー=ラバルトなら産出的構想力の働きとかとしてこれを構想することになるんじゃないだろうか。ランシエールの美学的体制っていう概念だってこれと無縁なわけじゃないだろうし(埋め立てられた不在地といったものを、それとしてここに可視化し見出すこと)。……個人的にはもっと細かい部分でいろいろ刺激を受けたんだけど(カリグラムって絵画技法の詳細とか。これはちょっとおもしろいなあ。覚えといて損ないね)、全体的なざっくりとした感想はこんな感じで。

 今週のおもしろ音源。ブロンディー「good boys」。なつかしい。