高野文子「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」

 年が明けたわけだけど身の周りの何かが特にがらっと変化したわけじゃない。外出なんかもほとんどしなかったし、いつもどおりの週日をおおむね休暇として過ごしただけだった。すでにおとといから仕事も始まってるし、なおさら平常どおりの週末という感じだ。お餅を4個くらい食べた。姪っ子たちと会ってにぎやかで楽しかった。年の瀬に掃除をすませた部屋の状態が、早くも床の上にちらほら目につき始めた煙草の灰のかけらだとかで、詮無き状態になりつつある、とか。かわったことと言ったらそれくらいかしら。…あとは本とCDをちょっと買ったよね。毎月一冊ずつ買い集めてた『第七女子会彷徨』が今月買った4巻で刊行ペースに追いついた。これは週末中に読むつもり。先月手に入れた四方田犬彦の「漫画原論」はまだ読み終えていないんだけど、表現論の勉強がてらにもう一冊、伊藤剛の「テヅカ・イズ・デッド」という本を取り寄せてみた。インパクトのあるタイトルは以前から見知っててけっこう興味があったんだけど、これまで実際に手に取るまでにはいたらなかった本。ぱらぱらめくって目次とか前がきなんかを覗いてみた印象だけどおもしろそうな感じだ(…どうでもいいはなしだけど、以前つとめてた職場に著者と同姓同名をした年配の男性がいたことを思い出す。いっしょにメシ食いにいったり、お互いにその時読んでる本の話ができるような数少ない職場の人間のひとりで、スロットがよいがこうじて座骨神経痛を悪化させるというような愉快な猛者だったよ。なつかしい思い出)。先月買った「1」につづいてドゥルーズの「シネマ2」も購入。伊藤剛の本もそうだけど、このあたりの本は自分の理解力的にパッと開いてパッと読み終えるってわけにはいかないんで、そのうち時間をもうけてまとめてぜんぶ読んでみるつもり。…あらためて部屋の本棚を眺めてみると、この機会にぜひ再読しときたいと思わせるような本がけっこうある。古谷利裕の「世界へと滲み出す脳」とか松浦寿輝「平面論」、ランシエールの「イメージの運命」、ラクー=ラバルト「近代人の模倣」、ハイデッガー「芸術作品の根源」なんかも、この際もう一度ざっとでいいから読み直しておきたい。このあたりは内容的にマンガを直接論じてるわけじゃないけど、きっと(あらためて)刺激を受けることだろう。てか、四方田犬彦の本をちょぼちょぼ読んでて感じたんだけど、自分が書きたくて現に今書いてるような文章は「マンガ表現論」って内容でくくられるようなものとはかなり違うかもな、って感じがする。しいて呼称を与えるならば「イメージ論」ってことになるような文章を書きたいし、より強く興味がひきつけられている。自分でもよくわからんけれども。
クロード・シモンの「農耕詩」がとうとう刊行されるらしいんで、それにあわせてウェルギリウス「牧歌/農耕詩」も購入。いや、小説の方とどんな繋がりがあるんだかまったく知らんけど、なんか「読んどいたほうがいいぜ」みたいなこと小耳にはさんだよ? 信じちゃったけど選択間違ってないよね? 貧乏人にはちょっとお高くついたわけだけど、騙されちゃいないよね? …てことで、本は以上4冊ばかり購入。積ん読棚でほこりを被るなんてことが金輪際おこんないよう、これらはぜんぶちゃんと読む。近いうち読む。絶対にだ。
CDの方は、この前動画を貼りつけたAC/DCの「dirty deeds done dirt cheap」も収録された同名のアルバムと、クラッシュの「combat rock」ってアルバムの2枚を。輸入盤新品で、どっちもアマゾンで600円台で買えた。これはいい買い物したよ。クラッシュはAC/DC同様やっぱり名前くらいしか知らないバンドなんだけど、例のごとくまたYouTubeで音源みつけて、それはこのアルバムの4曲目に収録されてる「rock the casbah」って曲なんだけど、年末年始はこの曲がすごく気に入ってけっこう聴いてたもんで、じゃあちゃんとお金はらって買ってみようってことで。

 アルバム収録されてるのとはアレンジが違ってて、実はこの動画の方のがダンスっぽくてかっこいいという。(演奏時間も長くてたっぷり聴ける感じになってる)。これはベース音がしびれるよね。小刻みにカーブを描いていくみたいなベースのフレーズが問答無用でめちゃくちゃ気持ちいい。サビのボーカルとコーラスも、いっしょになって唸ってるとたいへん心地よい。クラッシュってバンドはパンクムーヴメントの中盤くらいから終わりにかけて活動してたみたいだけど、同じロンドンパンクでもピストルズなんかとはずいぶん演奏の印象がちがう。ポストパンクにかんしてはむかしよく聴いてたテクノ系の文脈でニューヨーク経由の音源をちらほら聴いたりしてたけど(DFAだっけ?とか)、クラッシュのこの楽曲なんかはピストルズなんかよりもそっちのポストパンク系のバンドなんかの方によっぽど音作りの感触が似てる気がする。アルバム収録のオリジナル版にはピアノ音がけっこう前面に出てたりするけど、ピストルズ的なものにピアノ演奏は似合わんよね。暴動への勧誘みたいなアジってるっぽい歌詞はそれこそパンク的なんだろうけど、音作りはすごく端正で、とても聴きやすい楽曲になってる。良い。

 …文章は220枚を超えたとこまで、13節目、たぶん最終節になる文章の途中。正月休みをはさんだわりに今週はたいしてはかどらなかった。姪っ子と遊んだり、彼女たちといっしょにやってきた飼い犬(メイという名のオスのトイプー)の面倒を、彼女たちが留守にしてる家で見てやってたりして、そういう役回りが休み中ほぼ毎日で、昼間はこのためにけっこう時間を食わされてた。犬きらいじゃないからぜんぜんかまわんのだけど、身の周りに生き物でも人でも誰かがいると文章が書けない。集中力がないんだ。
以下は第8節分。「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」を見つつ、イメージの組織とそれを語ることとのかかわりを論じる感じの内容。ちょい長め。
 …てことで、新年あけましておめでとうございます。


ラッキー嬢ちゃんの奇妙な帽子
 「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」という作品はひとつの帽子を巡る物語として読まれると同時に、私たちの観点からは、帽子の周囲に巡らされる物語としても読まれることになる。それは帽子について語られる物語というよりも、むしろ正確には、帽子が語る物語と要約されて然るべきものに見える。帽子が推移させる諸状況をして人物を動かしめ出来事を出来させるという説話的な総合の過程がそこに見出されることになるだろう。    
 「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」に現われるこの帽子は、布という主題の果たす諸関連を追っていく過程で探り当てられた。布の果たす第二の特性としての物品における対象性のうちに、この「頭頂部に羽根飾りを頂いたとても不恰好な帽子」が見定められている。前々節ですでに粗く定義しておいた見えないものの諸範疇をここに適用するならば、この帽子は見えないものの性質に関わる「見誤られたもの」として了解することが出来るだろう。「見誤られるもの」、それを見ることが当の対象や出来事における肯定/否定の分割と深く関与しており、見ることの行使を真偽の判定の水準で規定する本質的な錯視の対象、あるいは、見えるものを可能にする仮象のポジティビティ。この「見誤られるもの」としての帽子が遂行するイメージの水準での振る舞いは、相補的かつ相反するものでもある二つの働きを命令文の形式のもとに一挙に実現する。帽子がここで受動態で語る命令文はこう表現される、「見つけられてはならない、しかし同時に、見つけられなければならない(あるいは、見つけねばならない)」。この命題の周囲に争奪者たちによる人物の活動の軌跡が描かれていく。作品は奇態な帽子を巡る争奪戦の様子を描いて、そこに関わる者たちを敵対する二つの陣営に配分している。「ピンポット公国」再建の鍵を握るとされる帽子を挟んで、一方にはそれを阻もうとする悪の一味が黒幕であるストッキング会社社長に率いられ執拗な追求を繰り返し、他方にはこの帽子を首尾よく公国の密使の手に引き渡すべく奮闘するデパートの少女販売員ラッキーの活躍がある(亡国の王子と彼の忠実な部下とが真の身分を偽りながらラッキーと共闘し、あるいは彼女の冒険を陰に日向に支援する)。帽子は悪党たちによっては見つけられてはならないし、悪党の手に奪われるよりも先に、公国の使いの者によって見つけられなければならない。帽子が一挙に実現する見ることの二つの方向における使嗾が、この滑稽な帽子の見えるものにおける姿を描く*1。ここでは、見られることが分割する肯定と否定とがおのおの別の陣営に向けて配分されていることを考慮する必要はない。つまり、見られることが組織するこの矛盾律にも似た事態を回避するためにここで論理学的な手続きを踏まえることは不要であるし、あるいはむしろ、その操作はかえって事態の本質を見えなくさせることに繋がるだろう。ラッキーにとって「見つけられてはならない」ことは敵の目から隠れることを意味するのであり、「見つけられねばならない」のは公国の使いへの連絡のためである。見られることの肯定と否定とがそのように別個の対象に振り分けられているという事実によってのみ事態を把握し、出来事の不可能を解除しようとすることは、事がらの半面をしか見ていないことになるだろう。事態を悪党たちの側から見るならば、そこでもまたラッキーの側にとっての命令とまったく同じ形式の命令が、彼らにおける使命をラッキーのものと同一の様相のもとに輪郭づけている。物語をサスペンスの色合いに染める様相のもとで帽子が悪党たちに動機づけるその規定とは、黒幕の正体の「見つけられてはならない」謎の身元であり、これに併行して「見つけられなければならない」帽子そのものの獲得へと向けられる、そこでの陰謀や暗躍といった活動のすべてである。帽子は見ることの肯定と否定を矛盾律にしたがって択一的に両陣営に配り、それに論理学的な重しをかけるというのではなく、悪党の一味からラッキーや公国の諜報部員といった人物たちの描く系列の内部を動きながら彼らを差し合わせもする、一個の総合的なエージェントのような役割を果たしている。対象のあるべき場所を固定化する肯定と否定が重要なのではなく、そのような終わってしまったかに見える肯定と否定の場所から再び錨を上げる活動をおこなうものとしての帽子にこそ注目をしなければならない。
 「見誤られるもの」(あるいは「隠されたもの」)としてのこの奇妙な帽子の機能を、作者高野文子はたくみに絵の中で表現している。187頁から始まるシークェンスは、追っ手から逃れつつピンポット公国の使者を捜すラッキーが、帽子を手に携えながらデパートの階上への昇りエスカレーターに乗り込み、そこで黒幕のストッキング会社の社長である名望家の男とデパート内で働く裏切り者の女スパイとに上下で挟み撃ちにされ、あえなく身柄を拘束されてしまう場面を描いている(『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』187頁から194頁)。社長が追っ手の一味の首領である事実をその時点ではまだ知らないラッキーが、上のフロアのステップに立ち微笑みながら彼女を見下ろす彼に挨拶のことばをかける(「帽子の/サイズ/わかりまして/?」190-4)。この場面の以前にラッキーが(ピンポット公国の使いへの帽子の譲渡という秘密の本務を兼ねて)帽子売り場で接客係を務めていた際に、姪の誕生日用にと帽子を求めに売り場を訪れた社長とのあいだで交わしたやり取りを受けての挨拶である。ラッキーのこの何気ない一言に応えて社長がいよいよその黒幕としての本性を明かす(「おかげ/さまで」190-5a「それに/欲しい帽子も/決まりましてね」190-5b)。「お手持ちのが/頂きたい/だけなんです/から」(191-4)、社長のこのセリフはラッキーの携えるピンポットの帽子に対してのものであるが、彼はこのとき自分が当の帽子の所在にかんして誤解してしまっていることに気づいていない。この場面の直前にラッキーがたまたま頭に被ることになったベレー帽を、彼は自分の狙っているピンポットの帽子と勘違いしている。本物の帽子はどこにあるのか? この場面以前に最後にピンポットの帽子が見られるのは、185頁3コマ目でレストランから出るラッキーの左手においてである。以降このシークェンスに辿り着くまで、私たちにはラッキーが本物の帽子をどこにしまっているのか、その所在の正確な在りかを知ることが出来ない。絵の中に見ることの出来るものは、ラッキーがレストランで手に入れ、ことのついでといった何気ない調子で頭にのせたベレー帽、本物のピンポットの帽子に対して偽ものとして意識される方のそればかりである。社長のセリフ(191-4)を受けて直後の192頁で大きく描かれるラッキーの立ち姿の描写では、作家は周到に構図を整え、この見えない帽子を見るようにと私たちの視線を不可視の水準へと仕向けている。その時ラッキーの頭のベレー帽はコマの上の辺によって断ち切られて、枠の外の絵の描かれない空白の領域へと追い出されている。同時に、直前の「お手持ちの」というセリフが見る意識に喚起するラッキーの手に関しても、そこに帽子の姿を認めることは出来ない。左手の方には帽子とはまったく無縁の間違った対象が握られている(私たちは誤ったものを見る)。右手、エスカレーターの手すりにかけられ、手首から先がその前面に見られる側壁の存在によって私たちの視線からすっかり隠されているこの右手に、本物の帽子が握られているのだろうか(私たちには見えない。あるいは端的にそうなのではなく、見えないものをそこに想像視する)。再び、では一体帽子はどこにあるというのか? 本を見開いた状態で右半分を埋める192頁のページ絵に隣りあって、193頁に描かれる絵もラッキーの姿を前ページとほぼ同等の大きさの印象のうちに捉えて構図もほぼそのままに、しかし事がらの真相(敵の黒幕の正体)に気づいたラッキーが社長の待つ上階から逃れようとするかのように背後の階下に顔と半身を捻るさまが、前のページから続く一連の動作として描出されている(ラッキーの視界の先には、階下からピストルで彼女に狙い定める敵の女スパイが立ちはだかる)。その時背後を振り返って頭頂部から後頭部にかけてを私たちの視線に晒しているラッキーの頭には、帽子が被られている。しかしこの帽子は偽もののベレー帽の方だ。では、右手の先に本物の帽子が握られているのか。右手は、右半身をこころもち開くようにして背後を振り返るラッキーの上体に視界をさえぎられており、前ページから引き続きこの描写でも、彼女の握っているもの、あるいは握ってはいないものを確認することが出来ない。半身を捻って左半身の側面をこちら側にじゃっかん示す恰好になったことで、ラッキーのはくパンツの左のお尻あたりの箇所に、着衣のラインを崩す小さな膨らみが見えている。人物を正面から見据えた前のページの絵には見ることの出来なかった描写だが、ポケットからはみだす帽子の先端のように見えなくもないこの膨らみは、しかし帽子の在りかを示すものなのではなく、パンツの後ろ側にあるポケットのボタン止めの膨らみを描写しているものだ。再度、では本物のピンポット公国の帽子は一体どこにあるというのだろうか? ……結論から言えば、帽子はラッキーのはくパンツの右のポケットに隠されていたことになる(203頁)。ラッキーの身柄を押さえてまんまと帽子を回収したつもりで得意気になる黒幕の社長らは、しかしそこで自分たちが偽の帽子を掴まされていることに気づけないでいる。彼らは見誤っている。同様に、作品を読む私たちもまたこれを見誤る。帽子を巡るこの一連のくだりには、見えないものの第三のカテゴリーとして先に触れておいた「見誤られたもの」のイメージが開かれている。見えるものの複数のイメージの可能と、それらを見ることにおいて正しい対象と間違った対象とを適切に分割したうえでそれぞれに指示を遂行し「これがそれである(これはそれではない)」というイメージの真偽をテストにかけること──、「見誤られたもの」としてのイメージの役割はこの場面での帽子の神出鬼没な振る舞いにおいて充全に見て取ることが出来るだろう。「見誤られるもの」のイメージはこうして、正しい対象だけではなく間違った対象の現われをも可能にする力をもっていなければならない。何度でも強調しなければならないのは、この見えないもののイメージにおけるポジティブな力能である。
 絵として描かれた「見えるもの」との関わりから見えないもの(「見誤られるもの」)としての帽子を見てきたここまでの記述を、同じ帽子の「語られるもの」としての資格において継続させていこう。エスカレーターに立つラッキーを描いた二枚の絵は、見えないものとしての帽子の果たすイメージ機能を適切に表現しうるものとして私たちの瞳を強く捉えた。今度もやはり、語られうるものとしての帽子や布の働きを図解可能なものにしてくれる一枚の絵を作品の中から選び出してそこから記述を始めてみよう。
 私たちは242頁の4コマ目、紙面の下半分を占める一コマの絵に注目をする(私たちはこの図を解釈はしない。私たちはむしろ、なすりつける。紛れもなく作品から被った私たちのイメージと思考を裂くこの亀裂を、今度は作品の方へと延ばし、返す、そのためにだけこの絵を語る)。薄暗くがらんとした小部屋の中の様子が描かれている。視点は人の背丈ほどの高さに設定されており、部屋の真ん中か、それよりも数歩下がった位置、おそらく、この絵には描かれていない視点の背後にある部屋への出入りのための唯一の扉に近い場所から、この扉とは正反対の辺の壁が眺められている。床面はほぼ正方形をなしているようにも見え、眺められている正面の壁の左右の角がコマの両脇に対称して垂直の線を描いており、この二本の入り隅を描く線はそのまま扇状に開くようなかたちで角度を得て、床面との接線を描いている。正面右側の部屋の角にはこの部屋で唯一存在すると言ってよいらしい物品、バケツやモップといった清掃用の道具が見えることから、この部屋がデパート内にあって用務員の準備のためにもうけられているか、あるいは、たんに物置のようなスペースであるかする様子が伺えるだろう。このがらんとした小部屋の光景を風変わりなものにしている、奇妙に仕掛けじみた要素がある。正面の壁の中央、コマの上辺に接して上げ下げ式の小さな窓が開いており、スクリーントーンで表現される部屋の暗さがそこだけは外光によって免れているその空白の小さな広がりから、一本の綱が画面下端へと延びて届いている。窓の障子の下辺から延びているこの綱はスクリーントーンで表面の質感を表現されており、捻りを加えられ、また強い力で引っ張られでもしているかのようにピンと張ったこの直線に、ちょうど3箇所、結び目の作る蝶の羽のようなこぶ状の膨らみが見て取れる。この綱状をした直線は向こう端の窓から部屋の空間を横切って、おそらくこちら側の扉、画面を奥行き方向に区切るこの視点からは画面内で描かれることのない、信憑においてしか見ることの出来ない扉にまで達しているだろう。小窓の真下の床の上には破り捨てられた紙片のような無数の小さな四角形が散乱して、外光と窓の桟の影とがつくる陰影をその表面に反映させている。
 この場面に見られる主題的な要素とその関連において、ここまでの論述が明らかにしてきたものとの相同性と、そのような既知の連関とは異なるものとして現れているものとの異同とをはっきりさせておかねばならないだろう。私たちはこの場面でも四角い窓を見出している。コマの上辺に接して描かれるその上げ下げ式の小窓の縦二段に区切られた余白はページの横方向に対して均等に左右の空間を分かつ中央に据えられているが、この位置は、当のコマ(242-4)の中での枠線(コマの上辺)との相対的な位置関係を考慮せずにページの垂直方向における絶対位置を見た場合には、(横方向と同様)やはり天地の中央に配置されており、つまり、小窓はこのページの紙面全体のちょうど真ん中で私たちの視線を受け止める恰好になる。私たちの感性はこの構図と四角形の形態とがかたちづくる連関に刺激される。この構図と類似した光景を既に別の場所で見たことがあったはずだ。「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」に見られるこの小窓は、「田辺のつる」におけるあの空白の扉や「方南町経由新宿駅西口京王百貨店前行」の扉絵に描かれたバスの待合スペースの構図と同型のものとして見られることになるだろう。つまり、四角いページの中に象嵌されるようにして描かれる、さらに縮小されたもうひとつの四角形、そのような構図の在り方において、小窓がページの上に組織する外観は、真っ白な扉やバスの待合所といった別の場所、別の光景と合同する。ここには、ページの上で大小関係のうちに反復される四角形の、作品を越えた場所でのさらなる横断的な反復といったものが認められる。この小窓が上げ下げ式の窓として描写されていることにも留意しておいたほうがよいだろう。私たちは、それが引き戸でもなく、両開きの窓でもないことにある種の感銘を受ける。ここで上げ下げ式の窓の桟が描く上下に二つ連なった四角形の外観が、242頁全体のコマの構成が描く外観そのものの、簡略的で縮小された模式図として以外は見られないことに、事がらを貫くある種の規則といったものの働きの厳密さを思い知るかのように感じる。ページの中に埋め込まれたページ、紙の中の紙……。
 小窓のあるこの小さな部屋を包む薄暗さや、そのスクリーントーンの編み目や墨のベタ塗りによって表現された暗さの面と窓の外形が縁取る四角形の余白との連合も、もはやそれを指摘するにとどめて、ことさらに語ることはしないでおこう。私たちはここで、これまでに高野作品に見られてきたものとは明らかに異なる印象を与える、或る見慣れぬ要素について簡単に言及しておかねばならない。この場面の描写において異彩を放っているものが、窓から延びてページ手前方向に届こうとする一本の綱状の直線の存在にあることは先ほど触れておいた。詳しくは後述に譲ることにするが、まずはそれが、ストッキングを結わえて即席に作ったお手製のロープであるという事実は確認されておかねばならないだろう。窓のかたわらやその空白部分に近々と寄りそうカーテンやシーツ、マクラやショーツといった布状の物体を見てきたここまでの流れにあって、このストッキング製のロープの唐突とも言える現前は作品を読み継ぐ私たちの意識に、確かに異質な手ごたえを呼び覚ましている。ストッキングが、女性の脚部の表面にそって万遍なく延び広がる布の変種として見られる点を確認しておこう。スカートの表面の広がり(たとえば、「ボビー&ハーシー」のハーシーのはくこの着衣の、風をはらんだ広がり)や頭から被ったシーツ(「うらがえしの黒い猫」)がそうであるように、ストッキングは一種の着衣=布として機能する。この布が物的な対象性を特徴づける触知可能なものという属性において、一本のロープへと変貌を遂げている。しかしここでは、「風をはらむ布」として布の第二の特性に挙げておいたあの可入性や展性が再度注目されようとしているのではない。そうではなく、それが結び目のコブを示しつつ繋げられる一本の線状の形態を描いていること、そして、その連接された線状の対象が画面の端の窓からその反対側にあるとされる(そのコマに限っては)見えない扉、あるいは、扉に開いた明り取りのためのもうひとつの小窓へと一直線に空間をよぎっている、そのきわめて示唆的な絵としての有り様こそが、私たちの感性をここで強く打つのである。窓がその余白にもうける広がりにおいてイメージの去来を刻む閾として機能すること、および、物的な対象としての布がその広がりの近傍にあって語りうるものとして説話的に機能すること、このイメージと説話的な総合の両機能を前提として、ストッキング=ロープの形態は、見えないもののイメージにおける両価性、および、語りうるものの継起的で総合的な線状のモデルを提供する、それ自体で特権的な形象として了解されなければならない。然り、語られうるものとは、まさにこのような有り様以外のいかなる形態を取りうるというのか。イメージがそこを通過して現われるか消えるかする閾の不可能な広がりに、その場所から/へと向かって、語りうるものである限りの語りうるものが連接と継起による総合の線を延ばす、それ以外のいかなる形態がこのもっともシンプルなイメージと言表可能なものとのモデルに代わりうるというのか。語りうるものについて語るにあたって、私たちはこの小部屋の描写に見られる風変わりな光景を、試みにおける範例的な理想図とすることに決めるだろう。何故ならば、これこそが高野文子の作品を見る私たちの思考と感性とに刻まれたひび割れに対する、最良の現実的表現を可能にしてくれるはずのものであるからだ。作品や描かれた図像の解釈にあらかじめ拒まれてある私たちは、この固有の傷痕にも似たひび割れの線にそって記述を進めていく以外の選択肢をもたない。私たちにとってこの小部屋の奇妙な様子は、語りうるものを語ることそのことについてを秘かに告げる紋中紋、あるいは、言うならば一種のモデルルームとして機能することになるだろう。
 このコマに描かれた部屋の様子を、それが物語の中で有する価値や含意を勘案しつつ、より簡潔に図解的に語りなおそう。この部屋が何のために用いられているのかは作中ではっきりとはしないが、そこが、悪党の一味によって捕らえられたラッキーの監禁された場所であることは確かである。おそらく部屋はデパートの4階にあり、窓は開閉自由ではあるものの唯一の扉は施錠されてしまっており、そのうえ表には一味の一人が見張りについている。そのままでは拉致される運命を悟ったラッキーはこの小部屋から逃れるためにポケットの中に残っていたストッキングを結んで長い一本のロープを作り、扉の内ノブにその端を結わえて、窓からの脱出を試みる。窓の真下の紙片状の散乱物はこのストッキングのパッケージであった。場面は、デパートの販売員としてラッキーの任務に助力しながら、その正体はと言えばピンポット公国の王子その人であり、すべての事情を差配しもする青年タンチー=オルタンスが、表の見張りを倒しつつ、少女を救出すべく大急ぎで部屋へと駆けつけたところを描いている。描写された小部屋の光景は、扉に開いた小窓を蹴り割ったタンチーがそこから顔を覗かせた際に見ることになる、彼の視点に仮託された眺めである。ラッキーの方はと言えばすでにストッキング=ロープにぶら下がって半ばまで脱出に成功しつつあるものの、セレモニーに集まった大勢の人々が彼女のこの宙吊りの窮地を固唾を呑んで見守る中、少女を危機から救うという名目で黒幕であるゴッドストッキング社社長ミスター・ゴッドが下から帽子を奪いに迫りつつある、という文字通りのサスペンスフルな状況にある。ストッキング=ロープが宙吊りにされた少女と帽子を挟んで、その上と下とで二人の対照的な男の顔を鉢合わせさせている様を確認しておこう。敵対する二人、一人は亡国の王子としてみずから祖国の再興を賭けて冒険に乗り出している者であり、いま一人はその公国を滅ぼした大国からのエージェントとして公国再建を阻止せんと陰謀を張り巡らせる者である。この正反対の立場で相対する両者がここまで、めいめいの抱く理由こそ異なるものの、しかしラッキーに対してはいずれもが自身の正体を明かすことなく同じ身元の韜晦を保ってきていたということこそが、場面の対照をいっそう際立てている。そして、両者がまさにこの時ストッキング=ロープが結ぶ線上の上下でそれ目がけて腕を伸ばすことになるものこそが、同じラッキーでありピンポットの帽子である点にも留意しておかなければならないだろう。タンチーとミスター・ゴッドとは正反対の立場で対立しこそすれ、相互に離れた位置でその隔たりを保ったまま両者を繋げ合わせもする同じ機縁を共有しており、そして、その関係の機縁となる結節点を実現しているものこそが、ここで帽子として描かれるものの機能となっているだろう。そこに、帽子が繋げる説話的な総合の技法を見取るべきだ。帽子は奪い合いの可能な対象として物語の場を駆け巡りつつおのれの交換可能性(奪うことと奪われることとの両可能性)を実現しているが、同時に、帽子がそこに引き寄せる競争者たちの役割や配置を交換可能にする次元をも実現する。
 「見誤られるもの」としての帽子のイメージは見ることによる対象の選定といった問題をおのれの周囲の場に組織して、肯定と否定とによって測られる様々な度をもつ価値を産出し、そこに集まる競争者たちや彼らの行為の逐一をこの価値や有用性によって引かれる線によって測定し、組み合わせ、あるいは個別に解き、しかし再び繋げ合わせるといった、配分的役割を果たすだろう。帽子が行使するこの真偽のテストの判定基準は、帽子を見ることに伴う正誤の入手可能性によって示差的に順序づけられている。6度の価値といったものが考えられるだろう。(1)余りにも滑稽で、取るに足らない帽子。誰にもそれを被ることの価値が見出されないような、見向きもされない、見る価値もない帽子。タンチーがラッキーに初めて帽子を披露する場面(72頁以下のくだり)。それを見たラッキーの感想(「ひどーい」74-2)を受けてのタンチーのことばが端的にこの帽子の価値と性質を表している(「そうさ/だって何にも/知らない人が/気に入っちゃったり/したら困るだろ」75-1a)。帽子は無価値に等しいものとして見られるが、その外観の通り見えるがままに見えてそれ以上の何ごとをも語らない限りにおいて、かろうじておのれが、確かに無とは別の何物かではあることをネガティブに告げる(無言において語る)。(2)それを手に取る者自身にとっては価値がなくとも、それが交換の対象としては便益を有しうることを見出した者により、間接的に価値有りと見なされる帽子。帽子売り場に立って公国の諜報部員への帽子の譲渡という密命を帯びたラッキーが訪れる客たちの中から「正しい」客として認め、帽子を手渡すことになる紳士(女たらしの男)こそが、この段階における帽子の価値を実現している。ラッキーの完全な誤認によって帽子をたまたま入手したこの紳士然とした男は、ラッキーがこのデパートへやって来る前日まで侍女として仕えていた屋敷の「お嬢さま」へのプレゼント目的でこの帽子に目をつけたばかりのことで、この帽子のもつ真の意味などはいっさい顧慮されておらず、気分屋で変わり物好きの「お嬢さま」の歓心を得たい一心でこれに目をつける。帽子は単なる交換の対象としてのみ見られることになる。(3)自分を飾り立てるのに相応しいものとして見られる帽子。その見かけと身に着けるものとしての一般的役割とが完全に一致した帽子。帽子が語るものと帽子が求められるものとが、その外観と一般的な性質において過不足なく一致している価値の実現の度。女たらしの紳士によってプレゼントされたこの帽子をいたく気に入る「お嬢さま」の態度においてこの価値が表現されている。帽子は(1)の段階での滑稽さや他人に見向きのされない奇妙な物としての性格を保ったままだが、ここでは、奇特な趣味をした「お嬢さま」という特定の人物においておのれ一般的な身分を雄弁に語り、またそのようなものとして「お嬢さま」に見られることになる(「ステキ…/まるであたしのために/用意されていたかの/ようよ」96-6)。(4)見かけの滑稽さや醜悪さの下に、それとは正反対の重要性や価値の大きさを秘めたものとしての帽子。デパートの海外支店が建設されるにあたってその設計図ないし極秘文書を隠す物として帽子は見られる。デパート乗っ取りを陰謀する勢力がそれを狙うことになるとされ、ラッキーやタンチーがその妨害を切り抜けるために奮闘をする、そこでの冒険や争奪戦の様々な物語的な相を担保するものとして、帽子はもろもろの交換を可能にする。「見誤られるもの」としての帽子はこの価値の度にはじめてそれ固有のイメージの実相を現わすことが出来る。それは、見ることにおいて、「これが求めているものなのか、あるいはそうではないのか」という設問とそれへの回答のカップリングを可能にする。衣裳と実体との小さなズレの連続において、価値が物語における冒険と人物の活動を可能にしている。この度における価値は、実を言えば、ラッキー唯一人にしか開かれてはいない。(5)更新され、さらに増大して引き継がれる上書きされた帽子の価値。「見誤られるもの」としての帽子が前段(4)で、見ることに伴う真偽の判定を行使していたところに、新たな判定基準が上書きされる。タンチーのラッキーへの告白のことばが手っ取り早くこの事情を理解させてくれる。(「ごめんよ/ラッキー」133-1a「君を/だます/つもりは/なかったんだ」133-1b「実は/この帽子/には」133-2「デパートの/設計図/なんかじゃ/なくって」134-1「ある一国の/行く末を/左右する」135-1a「重要な/秘密が/かくされているんだ」135-1b)。帽子の中に隠されたものが「デパートの設計図」というそれなりに重要でもあろうものから、「ある一国」(ピンポット公国)の興亡の全重量がそこにかけられる、非常な重大さを有するものへと変貌する。タンチーはじめ公国の諜報部員や敵国の妨害者たちまでが周知の事実として了解し、それにしたがい動いていたものが、ラッキーにだけは告げられていなかった。あるいは、ラッキーだけが騙され、帽子の価値を見誤っていた。この誤謬可能性に開かれている限りにおいて、ラッキーだけが価値のかたちづくる全領域を踏査しうる資格をもつだろう。見誤ることのできるものだけが、事がらの真相を正しく見ることが出来るという弁証法の仕組みがそこに確認されるだろうか。正確に言い直せば、帽子に実現される「見誤られるもの」の価値は、弁証法的な否定性の契機が構成する論理的区間を突っ切り、正にそこをパスしていくことが出来るものとしてある。何故ならば、「見誤られるもの」は自身における不可能なもの、見えないもの、複数化した選言肢のすべてをイメージから手放すことなくテストを継続させていき、弁証法をくぐり抜けてさらにその先へと通過していくものであるからである。むしろ、弁証法的な否定性の方こそが、「見誤られるもの」のこの不可能なものの現前という事態から逃げ出し、置き去りにされる。(6)帽子が可能にする冒険のすべての局面を秘かに宰領している最高度の価値。すべての価値の度がそこに淵源をもち、そこを通過し、そこへと上昇し、そこで限界づけられる、そのような最も高きものとして見られる価値の度。つまり、特定の度として実現されると同時に、価値の度数としての度そのものでもあるような、測度の基準であり条件でもあるもの。また、モデルとしてもろもろのコピーを産み出しし、ばら撒くと同時に、それらをおのれのもとへと回収するもの。一篇の物語を最終的に祝着することになるこの帽子の姿は、作品の最後のページに現われている。無事帽子を使者の手へと届け、悪漢たちの撃退にも成功したラッキーを労い、傍らのタンチーが最後にプレゼントの進呈を申し出る。(「わがピンポット公国/代だいのお姫さまに/伝わる王冠は/いかが?」259-5a)。彼こそがそのピンポット公国の王子である点は先に触れておいた通りだ。王子じきじきに宝飾されて光り輝く王冠を恭しく差し出され、思わず賛嘆のことばを漏らすラッキーに、公国の諜報部員を務めたご婦人が笑顔で事情を解く。(「あの帽子は/この王冠を/かたどったもの/だったの/ですよ」260-2b)。頭頂部に羽根飾りを頂いた変てこな帽子は、今やこの上なく素晴らしいものへとすっかり変貌する。(「こうして/見ると/悪くないわ」260-3 「ううん/こんなステキな/王冠は きっと/世界中どこを/さがしたって/見つからないことよ」260-4)。王子の手により王冠を戴かれようとするラッキーの姿が場面に描かれて、ついに物語のすべてがそこに結ばれる。こうして、王冠=帽子はそこに展開可能なすべての度を実現して物語を祝着=終着へと導き、見えることと語ることとの全権能の行使を完遂する。以上の姿で実現されている価値の6つの諸相において、言説行為はその対象をもつことができ、また、対象としても言説を組織することが可能となっているだろう。見えないものと語ることとの関係はこのようにしても摘出することが出来る。
 フィクションの要素としての帽子は移行と変移の可能な諸価値の場を刻みながら物語をまさに語ることの出来るものとして規定しているが、「見誤られるもの」の可能性としてのこの帽子が、ここで、『意味の論理学』のドゥルーズが説くところのセリーの発生にも関わっている点につき簡単に確認しておいてもよいだろう。その場合、帽子はもっぱら「パラドックス的な審級」を担う対象として見られることになる。異質なセリーの二本の線は「中身のない(所有者をもたない)帽子」の描くシニフィアンのセリーと、「所有の対象をもたない争奪者たち」の活動する冒険と陰謀のシニフィエのセリーとによってかたちづくられるだろう。前者は「空虚な位置」として物語の最も外縁部に位置する場所からこの内部へと宿り、価値の領域を次々に産出しながら目まぐるしくその位置を変え、移動をしつづける。後者は「位置なき占有者」として物語の内部にあらかじめ装填されたエージェントであり、その機能は帽子を求めて行われる目の回るような運動の実現にある。両セリーを跨いで、つねに動きつづけるものがある。帽子と競争者たちのあいだにはいつでも不一致やズレが生じており、シニフィアンの要素とシニフィエの要素との隔たりと結びつき、離反と接近とを差配するものこそが「パラドックス的な審級」としての帽子の機能となる。帽子(の見かけ)を見ることは帽子(の本体)を見ないこと、あるいはそれを必然的に「見誤ること」として以外には実現されない。これがパラドックスだ。正面から帽子を見るときにはそれは見えない。見ることにおいて正対する当の側面に対して、価値のかたちづくる諸階梯の一段上か下にしかそれは存在しない。見ることと見ないこととのあいだには必ず不可避の段差が存在するのだ。この見えない段差を斜めに跨ぐことにおいて、そこでの人物たちの不恰好で切実でもある数々の態度や冒険が描かれることになるだろう(見えないことと語ることととが、パラドックスの実現する「無限後退」の相において深く関係する)。パラドックス的な要素が行使するこのような交差的な総合の技法、言わば斜行的な統辞法といったものは、私たちが最初に指摘しておいた「見つけられてはならないもの」と「見つけられなければならないもの」とで二重化され倍化されたあのイメージの特別な姿を描き出すことになる。「見誤られるもの」のイメージもまた同様に、このパラドックス的なエレメントにおいて定義可能なものとなっているはずだ。そこに、シニフィアンとして運動を組織し、シニフィエとして運動を賦課される、諸セリーの両面の接合をあらかじめ図示する描写として、あの「頭頂部に羽根飾りを乗せた滑稽な帽子」の外観を再発見することも出来るだろう。羽根のように軽く、空を飛ぶかのごとく駆け巡ること、そのような性格を雄弁に語るエンブレム=羽根飾りをもつ帽子が、折り畳まれ縫製を施された布として見られること(布の第二の特性)、その点についても私たちはすでに確認済みであるはずだ。
 「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」という作品をきわめて限定された側面から見てきた私たちの試みは、ここで一旦中断されなければならない。後にもう一度この作品に戻ってそこで新たに見るべきものをあらためて見て取る機会も残されてはいるはずだが、ここでは論述をさらに先へと進めなければならない。見えないものと語りうるものとの関わりの一例を見てきたここまでの流れから、再び高野作品における主題的な連関を追いなおさなければならない。扉や窓といった四角形の図形から物品としての布を見てきた流れを継いで、ここからは新たな対象を見ることにしよう。それは鏡やガラス窓といったかたちを取って物や人の影像をそこに反映させることのできる形象として見出される。

*1:「見られてはならない、同時に、見られなければならない」という「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」において帽子の語るこの命令文と類似したものが、花輪和一の『刑務所の中』における主人公の境遇を同様の禁止の厳格さにおいて規定しているだろう。収監された囚人が刑務所内のどこにあっても、いついかなる時でも耳を傾けることを強いられるその命令とは、「見てはならない、同時に、見られてはならない」という形式で表現される。物品として見られうるものとしての高野文子の帽子が受動態において「見られる」ことをのみ配慮していたところのものに対し、花輪和一の作品では、刑務所内の事物や光景の詳細なスケッチ(禁じられたイメージ)が「見ること」そのものをほとんど無際限に折り畳むようにして、しかしそこに、不可能な絵の実現を可能にしている様を見ることが出来る。『刑務所の中』が語るイメージへの呼びかけとは、「見てはならない、かつ、(見ていることを)見られてはならない」という威嚇の声として作品内で響くことになる。