高野文子「方南町経由新宿駅西口京王百貨店前行」/「奥村さんのお茄子」

 マンガの評論を書くのはぼちぼちとつづいている。仕事が終わったあとの日課になってる。先日、治りかけてたかさぶたを剥がしてしまってそこんところがきゅっと痛い。我慢して文章を書く。蜘蛛の巣を作るみたいにして一本ずつひいこら言いながら織りあげていく。
 ようやく60枚分くらい書けたんだけど、全体の構想みたいなことを考えず見切り発車もいいとこで書き始めてしまったもんだから、今週はとうとう筆がとどこおってしまった。個別の作家論を重ねていって、その中で少しずつ取り上げる主題を移動させつつ最後までもっていこうかな、くらいのざっくりした気構えで始めたんだけど、最初の章になるはずの高野文子を論じるパートがここまでの感じだとどう考えてもその大まかな全体のバランスとは釣り合わないくらいの分量になってしまいそうで、煮詰まってしまった。後に続く予定の作家を論じる部分が今書いてる高野文子論と同じくらいのボリュームで書ければ、全体としての嵩は大幅に増してしまうけどバランスとしてはおかしくない。けど、それだと内容的に重複してしまうとこが出てきて単純に冗長に過ぎる気がするし、なんか目指している文章の展開のスタイルとは違ってぶくぶく太った印象になりそうでちょっと嫌な感じがする。蜘蛛の巣みたいなぐるぐるした文章を一本の糸だけで作ってみたいという気持ちがある。文は人なりってことばの意味は知らんけど、自分の書くものは、確かに、自分の生き方とか考えてることに正確に一致してなきゃいけないと思ってる。つまり、自分の生のありかたが社会とか世界に対して明らかに不一致を示してるわけだから、書くものも、この不一致と正確に一致してなきゃいけない。要するに、とても素朴で古臭い書き方をしたいんだと思う。ぐるぐるした堂々巡りみたいな書き方もそうだ。自分で生み出した蜘蛛の巣に自分ではまってしまって身動きがとれずにいる、その感覚だけがとてもリアルに感じられる。書かれたものも、この間抜けな一匹の蜘蛛の、笑わせようとしてるのか、それとも死にかけてるのかわからない、切実で滑稽なダンスのようであってほしいと願う。

 弁当箱の影

 私たちの感性は今、高野文子の「田辺のつる」という作品を直接のきっかけにして、マンガの紙面に広がるこの真っ白な余白の面へと引き寄せられている。扉の形態が描く矩形の図形とその内部に限界づけられた空白の面、投影面か遮断幕として機能するその面の表裏に去来する諸イメージ、イメージは見えるものとしてそれが実際にペンで引かれた線であるか、あるいはことばの権能によって見えるものの資格において視覚を刺激するのか、それは選ぶところではない。それらのイメージの現れや遠ざかりといったパースペクティブの地平における出来事が、それ自体としては実体としての厚みをもたないこの表面を境にして奥行きにおける交流を可能にしている、そのことが私たちの作品に対する態度を否応なく決定しつつある。
 「田辺のつる」とともに作品集『絶対安全剃刀』に収録されている「方南町経由新宿駅西口京王百貨店前行」という作品が私たちの視線を特に惹く理由は、同じ感性への刺激による。消失点をページの中心に据えてバスの待合のためのスペースを描くそこでの扉絵の描画が、さっそく私たちにある予感めいたものを感じさせもするだろう。一人称の主観視点の高さはほぼ人の背丈と等しく設定されている。この絵は、ある時その場所で、私たちによって眺められた(眺められうる)光景として作図されている。中心の奥行き方向にそって私たちの足元に伸びる細い通路は地階へと降りてゆく階段へと繋がっており、視線はそこで地下通路の入り口となる四角い壁を構図の底面として認める。通路の左側に均等の幅で立つ3本の円柱と右側に設置されたバス停の路線案内のための直立体とが並行し、横方向に上下で平行する通路の床と屋根の面を繋いで、全体としては、遠近法によって奥行き方向に伸縮する四角形の図形の連続面、ないし立方体を垂直方向から透視したような外観をかたちづくっているだろう。ドアノブのかたちづくる円形をほぼ唯一の例外に、限界まで修飾を削ぎ落としたあの「田辺のつる」の四角い扉の空白と似たものが、そこにはあるだろうか。「方南町経由新宿駅西口京王百貨店前行」のこのバスターミナルの一画を占める通路の描写は、読み手がそこで抱くであろう臨場感を信憑として補強するのに充分な細部への描き込みがあり、遠近法による作図の実践がある。「田辺のつる」の扉がほとんど顧慮していないかにも見える描画の水準がこの通路の描写には如実に見て取ることが出来る。双方の絵を繋ぐ糸はフォルムとしてのこの四角形の外観と、イメージや形象の交錯する場ないし通路をもうけるというそれぞれの作品の中での絵が果たす意味論的な機能だけであるようにも思われる。しかしそれだけのものが見出されれば、その時私たちの感性はすでにある類似のものの反復をそこに感じ取ることになる、そうも言えるだろう。私たちの歩みはこの蜘蛛の糸のように細く頼りなくも見える糸をのみ、唯一の目に映るしるべとして進められなければならない。
 「方南町経由新宿駅西口京王百貨店前行」の物語は総頁数8ページという分量に相応しく、ごく簡潔で軽いものであると言っていいだろう。同乗するバスの中で友だち同士である3人の若い娘と同年輩の一人の男が交流する様を軽快に描いたこの短篇の物語の内容において、ここであらためて語るべきことはない。私たちが着目するものは、やはりここまで述べてきた四角形のフォルムとイメージとの係わり合いに関する点に絞られる。そのことばが冗談なのか本気なのか、3人の女の子のうちの一人に自分との交際を持ちかける若い男のアプローチをはぐらかすため、女の子たちが彼を騙してバスから逃げ出すくだり。しだいに熱を帯びていく男の口説き文句の中でいよいよ「結婚」の一語が語られ、女の子たちにとって端的に局面が面倒なもの、重くダルいものへと変わったであろうその瞬間、彼女らのうちの一人、サングラスをかけた女の子(口説かれている娘とは別の一人)が車窓から外の空を仰ぎ見つつ、場違いな声を上げる。「ちょっとお/あれ/スーパーマン……」(64-5)。つづく65頁での描写は窓の外にこの「スーパーマン」を見つけた(フリをする)女の子3人と訝しげに空の様子をうかがう男との重なり合う姿をバスの外部からの視点で画面に捉えつつ、3人がすでに男の鈍重とも言える影から軽やかに身をかわし、この粘つき始めた状況から抜け出すための唯一の出口、バスの降車口へと向かっていく様が描かれている。繰り返すが、この場面において私たちの注意を強く惹くものはここでもやはり、四角形の形態と出没するイメージとの係わり合いに関する。サングラスの女の子による上述の発言が描かれたコマ(64-5)にはこの短篇にあって例外的に、コマの外形を縁取る枠線が引かれていない。コマそのものをかたちづくる四角形が描かれていない代わりのようにして、このコマの内部に描かれる絵の内容の水準において、バスの車窓がかたちづくる台形に近い四角形の図形が盛り込まれているだろう。あたかもコマの枠線がそこで縮んでしまったかのように(この作品の扉絵における構図をもう一度思い返してもいいだろう)。では私たちに後ろ姿を向けてこの車窓のかたちづくる四角形の前に立つサングラスの女の子は、窓の空白を通じて空の上に何を見ているのだろうか。作品の内容が明示的に語るところに従えば、無論彼女は何も目にしていないことになるだろう。サングラスの彼女がことばによって喚起し、残りの2人の少女が窓を通じて見るものとして指示される「スーパーマン」とはもちろん、若い男を騙しうつことを目的とした為にする虚言、雲一つ見当たらない空に描かれる文字通りの絵空事に類するものであるだろう。しかしその時、私たち読み手のイメージの中ではサングラスの少女の嘘が喚起するそれ自体としては存在しない「スーパーマン」が窓の四角形の向こう側、空白の空を背景にして、確かにありえない飛翔を(おそらくは、こよなく軽やかに)開始しているだろう*1。まんまと騙され獲物にはぐらかされた恰好の若い男が窓の外に見、そして次の瞬間に見失うであろうものもまた、この同じ「スーパーマン」のありえない飛翔であるはずだ。ここにおいて、バスの車窓の四角形がその形態とイメージとの在り方において、「田辺のつる」におけるあの扉の余白と主題論的に合流する様を確認できるだろう。窓と扉という現実的な機能の面における相違こそ認められるものの、形態的な相同性において二者はそれぞれの属する作品を超えて主題的に互いに重なり合うことができ、イメージの出現と消失という大きな役割において完全に同一の働きをするものとみなすことができる。「方南町経由新宿駅西口京王百貨店前行」の最終ページは扉と窓とのこのまったく同じものとしての資格を私たちに如実に示して教育的ですらあるだろう。車窓の外の四角形の空間に「スーパーマン」を見失った若い男は、次の瞬間、背後の降車扉の向こうに、すでにバスの外に降りて今まさに彼の前から去っていく3人の娘たちの姿を見出す。私たちもまた男とともに、見ることと見失うこととがまったく同じ瞬間に矛盾なく実現されるこの場面に立ち会う(66頁2コマ目)。バスの窓から転じた瞳が次の瞬間に見ることになるこの降車扉が、作家により四角形の形態において描写されていることは言うまでもないだろう。イメージの出現と消失という事態が窓から扉への視線の移行において強調符を伴い二度繰り返されている。
 「奥村さんのお茄子」(高野文子『棒がいっぽん』所収)における弁当箱と茄子の漬け物との関係はおそらく上述の四角い形態とイメージの関係に連なるものとして見ることができるだろう。「奥村さん」の左手に抱えられた弁当箱の四角形はそこでは四角形そのものとしては絵の上に結ばれてはいないものの(奥行きにおいて台形に捉えられ、手の平と指とがかたちづくる形態によって、さらにそれを入り江状に切り抜かれてはいるものの)、その時茄子漬けが果たして「奥村さん」の口に入ったか否かが見えるものの資格において厳しく問われているこの場面で、弁当箱は四角形の空白を抱え込んだ形態として私たちに了解されることになるだろうし(視覚的な印象と同時に概念的な把握のうちに)、この余白の影において「お茄子」の存在はその不在とともに揺れ動くイメージのうちに繋ぎとめられていることになるだろう。誰によっても、もはやそのイメージの揺動を鎮めることは出来ない。弁当箱の影の部分に現われ、同時に消えもする茄子漬けのイメージが、四角いテレビのブラウン管に映し出されている、あるいは、映し出されない。イメージは揺れ動きつづけ、「奥村さん」の記憶もまた不確かなものでありつづける。それは「田辺つる」が作品にもたらしたあの渦巻き状の記憶の錯乱とイメージの多重露光的な在り方とに等しいものでもあるはずだろう。
 「奥村さんのお茄子」という作品においてそれは、弁当箱の背後で四角いモニタに映り込む背景の染みのごとき微かな反映から、光のもとでの視線のリレーを通じても開始されることが出来る。「奥村さんのお茄子」の物語に流れる「かわいいこっくさん」の絵描き歌は、この光のもとで生じる見えるものの豪奢なリレーをことばの見えないものの側面から強く力づけるものとして歌われる。

ぼーがいっぽんあったとさ/はっぱかな/はっぱじゃないよ/かえるだよ/かえるじゃないよ/あひるだよ/ろくがつむいかに/あめざーざー/さんかくじょうぎに/ひびいって/おまめをみっつ/くださいな/あんぱんふたつ/くださいな/こっぺぱんふたつ/くださいな/あっというまに/あっというまに/かわいい こっくさん

 そこでは歌声に伴われながら引かれていく線がおのれに固有の形象をその都度実現していきながら、次の瞬間には別の形象へとおのれを譲り渡して、この別の形象においておのれ自身の別なものでしかありえないイメージをかたちづくるという累乗的な過程が現われている。原理的には野放図なものと言ってよいこのイメージの膨れ上がりの過程にあって、イメージによって引かれる複数の線は否定のしぐさをまったく知らないものとなるだろう。「はっぱ」と「はっぱじゃない」ものとのあいだには、ある何らかの存在とその現前の事後的な抹消とが結ぶ否定的な関係があるのでは無論なく、絵描き歌がつねに狙うこの嘘のように晴れやかで出鱈目で野放図な企図にあって、「はっぱ」は「かえる」と重なり合い、同居しつづけ、「かえる」もまた「あひる」とともに同様の関係を取り結び、こうしていつしか、いつの間にか、夢見るようなすばやさで、見えるもののその場所に「かわいいこっくさん」の肯定そのものの形象を描くことになる。「奥村さんのお茄子」の最後の6ページに見られるあの陽光のもとでの視線のリレーを描いた場面は、絵描き歌の定式によって準備されたものの、見えるものの現在による、描写による、実演であるだろう。ブラウン管が描く四角形の表面、弁当箱の四角形の余白に広がりだすものとは、このイメージの無方向的で錯乱にも似た渦巻き状に連繋するリレー線である。


……以上が第二節分。この後は「春ノ波止場デ生マレタ鳥ハ」を取り上げて高野作品の四角形のフォルムに注目する文章につづく感じになる。
 そういや、ブログのタイトルとスタイルを変更してみたんだっけ。気分転換なり。

*1:高野文子の「方南町経由新宿駅西口京王百貨店前行」に現われるこの不在のイメージとしての「スーパーマン」と類似した形象として、私たちは三好銀の短篇に姿を現わす/現わさない「サンタクロース」を見出すことが出来るだろう。この「サンタクロース」に関する詳細は後にあらためて集中的に見ることが出来るはずだ。