『ジャン=フランソワ・ラギオニ短篇集』

 「アニメーションズ」のレヴューで取り上げられている作品の中から、面白そうで手に入れやすそうなDVDを一本選んで購入してみた。同封されてるライナーノーツの文章によると、このジャン=フランソワ・ラギオニという人は1939年生まれのフランスのアニメーション作家だとのこと。DVDには、65年の処女作から78年までの間に作られた7本の短篇が収録されている。どの作品も10分前後のごく短いものだけれど(「大西洋横断」という作品だけは例外的に20分くらい)、どれもとても面白かったし見ごたえがある。パッケージには、≪アンリ・ルソーを思わせる素朴な絵柄≫というふうに紹介されている。どれも、幻想が紙の背後から世界の表面へと静かに滲み出してくるような印象のある作品。
 アニメーションの制作に関する技術的な事柄なんかについてはさっぱり知識がないんだけれど、このラギオニという人は切り絵のコラージュみたいな組み立て法によって画面に描かれる絵の動きを実現しているらしい。人物だったら、関節で区切られた四肢のそれぞれや体幹、身に着けている服飾品といった、形象の全体像を構成する幾つかの部分がひとつの塊の単位としてそれぞれに分けられてパーツ化されていて、それらのお互いの間での連動的な移動や揺れが画面に生きた動きをもたらしている(ライナーによれば、切り紙のパーツに薄い鉄片を裏打ちして、垂直に立てられた背景に磁石の力を利用してそれらを固定し、撮影を行っているとのことだ)。要するに、舞台裏の仕掛けの次元としては、操り人形の吊り糸を使った操作とよく似たものであるということなんじゃないかとイメージするんだけれど、別にそこに動きのぎこちなさみたいなものは感じられない。ただ、動きの異物感、視覚の齟齬みたいな感覚はとても濃厚に伝わってくる。
 マリオネットでの表現というものが垂直的な重さの支配に対する抵抗のために(人形を立ち上げて演技させるために)、逆説的に不自然な軽さや無重力状態みたいな浮遊感につねに不可避的に悩まされるものだとすれば、キャンバスのように垂直に立てられた平面の上に貼り付けられる、重さのない、紙に描かれただけのラギオニの切り絵は、むしろ重さを取り戻すためにこそその垂直の物的な次元を導入しようとしているようにも思われる。仕掛けとして人形芝居とよく似ているとは言っても、そこには、重いが故に軽すぎることになるものと、軽すぎるが故にあえて重くなるものとの、条件の順序のレベルでの違いがある。物の表面に描かれただけの絵は(それがどんな素材に描かれていようと)重さの属性とはまったく無縁であるように思うけれど、切り抜かれた絵のパーツは切り抜くという過程を経たその途端、それがどんなに微小な重みであっても、即物的な重さの支配する、それ以前とはまったく異なる次元に移行するんじゃないだろうか。それが垂直に立てられた背景に収まらねばならないパーツならば尚更のことで、それは手に取って、糸か磁力線みたいな支えのもとで操作されなければ画面の配置の内部に宿ることはできないくらいに重くなるし、ほっといたら自然に立ち上がることなどけっしてないひとつの物体としての重みを持つことになるだろう。10分の作品に何枚の絵、何枚の切り絵のパーツが必要だったかは分からないけれど(膨大な数になるんだろう)、ラギオニの作品にはその枚数の数だけの重さがあるとは言えるように思う。物語の中で空にはばたくカモメだとか、水中をまるで空を飛ぶように泳ぐ魚の群れ、いともたやすく風に吹き飛ばされる帽子や女なんかは、制作手法が課すこの唯物的な重量の支配のもと、重さと軽さとの絶えず拮抗する不安定な釣り合いの中で、実現されていると考えていいんじゃないだろうか。切り絵によるアニメーションの、技巧の拙劣とかぎこちなさなんかとはまったく違う、視覚に訴えるあの動きの独特な面白さは、そういう均衡の危うい釣り合いが生み出しているんじゃないのかなと思った。
 そういえば先週、テレビで『借りぐらしのアリエッティ』の特別番組を観た。ジブリの新人監督による作品の制作過程を1年半かけて追いかけるという内容のドキュメンタリーだったけど、アニメーター出身のその若い監督が、欠けているカットを補うために、アリエッティが梯子を昇っていくというシーンの動画を急遽作り上げていき、それをわずか半日という物凄いスピードで(ナレーションのことばによれば確か、並みのアニメーターなら数日はかかるという難しい仕事だということだった)仕上げていく、みたいな場面があった。「梯子を昇ること」という重さと人物の意志とが拮抗する関係性を、アリエッティの身体の動きにおいて説得的に(現実らしく)表現するために、監督の人がいろいろと試行錯誤している様子が画面に映し出されていた(できあがった動画も確かに見事なものだった)。ラギオニという作家の作品が描く重さや動きの表現は、そういうような現実らしさの巧みな転写とはまた目指すところが違っているように見える。うまく言えないけれど、そこでは物理的だったり心理的だったりする現実の動作の反映が狙われているわけじゃなくて、紙の表面に描かれた絵の担うそれ独自の重さや軽さといった属性の自律性が描かれようとしているんじゃないのかな、とか思った。作品は作品の素材の次元で、現実の保証を何ら必要とせずに充分自足している。ただし、作品には幻想の通路が開いていて、外の別種の現実との相互通行がある。
 ラギオニの描く世界観みたいなものも興味深い。そこで描かれる世界の幻想的な感触は、ひしめき合う鯨の背中みたいに大きく波立つ暗い海の揺れだとか、死んだように沈黙する赤茶けた荒野や砂漠なんかから、ゆっくり、とても静かに、画面からじわじわ隆起してくるように感じる。ほとんど人間の住む場所とは思えないその世界に招かれる男や女は例外なく孤独のうちに引き篭もっており、無言のしぐさでもって社会的な関係をかたくなに拒みながら、幻想の領域をただただ通り過ぎていく。社会的な他者の住んでいる世界はつねに、背景の目に見えない場所にまで陥没しているか、死んだみたいに停止して黙りこんでしまっているかしているけれど(「お嬢さんとチェロ弾き」の最後の場面に静止画で描かれる、人で溢れ返った海水浴場だとか、「ある日突然爆弾が」の無人の町を遠巻きに眺める群集だとか)、孤絶した男女の生きる幻想的な領域には、むしろ、狂騒的な運動や騒がしさが充ちているようにも見える。登場人物たちに逃避行のニュアンスの色濃いある種の旅を強いる舞台装置としての海や、そのオデュッセウス的な航海や冒険のサインとなる小道具としての舟の働き(「ノアの方舟」の山頂に乗り上げた方舟とか「人魚に恋した男」の主人公の難破船荒らしの仕事とか)、その私的で幻想的な舞台の上でできごとに翻弄される一組の男女、作品に見ることのできるそれら特徴的な諸モチーフの次第は、作家に取り憑く謎めいたオプセッションの存在を強く感じさせもする(ライナーノーツには、ラギオニの幼い頃に体験した、彼の父とその仕事を巡るひとつのエピソードが紹介されている)。それが何を語ろうとしているのかは判読不可能だけど、それが目を惹かれずにはおれない何かを作品の全面に漲らせていることも確かだ。
 「俳優」(75年)と「悪魔の仮面」(76年)という二つの作品には、仮面とか変装という主題が明示的に描かれている。「俳優」には舞台の人気役者である男の変幻自在な変貌ぶりとその隠された素顔の秘密の露見が事の顛末として描かれていて、「悪魔の仮面」にも同様に、魔女と悪魔との、仮面による変装とその暴露を賭けた知恵比べの経緯が描かれている。ラギオニの短篇二作目である「ノアの方舟」(66年)にも一種の変身の場面を確認することができる。方舟に乗せるべき生き物のつがいを集める偏執狂的な男が、最後に残ったヒトのメスとして(自分とカップルとなる相手として)、女をさらうくだり。社会から離脱して愛の幻想的な領域へと向かって航海を始める一組の男女、という作家に固有の偏愛的なモチーフはここにも如実に姿を現わしているけれど、その拉致さながらの無茶な行為の前段の場面として、男が顔一面を覆った髭を鏡を覗きこみながら剃り落とすという、一種の変装の手続きが見られることになる。「人魚に恋した男」(74年)や「大西洋横断」(78年)では、もはや顔は変装の特別な場所であることをやめて、人から魚や鳥、ワニ、四足獣といった、存在の全面的な変身そのものの事態がモチーフとして扱われることになる。
 アニメーションの作画の水準では、おそらく物や人物の同一性(それが同じものでありつづけるということ)は、現実の見かけが常識の水準でそれを仮構する秩序とは、まったく逆を向いているんだろうと思う。物や人物の顔立ちといったものの同一性こそがもっとも脆く、意識的にコントロールして維持をこころがけなければたやすく失われてしまうものであって、アニメーションの条件としてある世界の水準では、変身こそがもっとも容易なもの、容易というより、むしろその(動画の枚数の数だけ、一枚の絵が描かれるその度に)不断に変わり続けることこそが、その世界のもっとも厳密な原理であるとすら言えるんじゃないだろうか。そしておそらく、アニメーションのこの厳格な掟は、わたしたちの生きているこの現実の同一性の方こそが、動画の世界の正しさに対する錯覚的な転倒であるという事実を、低い声で告げようとしているのかもしれない。
 この短篇集に収録された何作かには、「絵の中に描かれた絵」だとか、「絵の中に描かれた(書かれた)ことば」が現われる場面があって、そういう細部にも、どこかしら人目を惹かずにはおかない何か異物感のような感触がある。「ある日突然爆弾が」(69年)の、不発弾の爆発を怖れて住民の退去した無人の町にやって来た男は、赤ペンキを建物の壁一面にぶちまけるようにしてそこに大きく、樹木の図形を描いていく。「ノアの方舟」と「俳優」、それから「大西洋横断」には、図録を兼ねた生き物たちの名簿にチェックされていく積荷の数字だとかブロマイド写真に上書きされる俳優のサイン、航海日誌の文字の傍らに夫婦によって描かれる落書きめいたイラストなんかが見いだされる。それらはアニメーションという紙の上の絵の中に描かれた(書かれた)絵と文字記号のペアとして画面に現われている。魔法や手品めいた早業といったものもまたラギオニが作品に好んで描いた題材のひとつなんだろうけど、というか変装や変身と同じように「アニメーション=魔法」という定式がここでも確認できるかもしれないんだけど、そこで絵の内部に描かれた絵や文字からは、それらの魔法や早業なんかとはまた別の、目眩をもたらすようなある迷宮的な感覚が画面の表面で小さく渦を巻いているような印象がある。その正体はよく分からないけれど、そこには形式と内容の絶え間ない反転の核みたいなものがうずくまっているようにも感じる。