三好銀『いるのにいない日曜日』

 収録されている「ピンナップ」というエピソードには、ある一枚の写真を巡って人物たちの身辺に起ったできごとが描かれている。ある日ゴミ捨て場の前で、女が一枚の写真を拾う。建物のベランダか縁側みたいに見える場所を間近の距離から切り取ったその写真には、一匹の猫と、そのすぐ横に腰をおろしてこの猫を見つめる一人の女の姿がおさめられている。5年前の日付けが確認できるその写真に写った女は、ほかでもない、今この写真を手にとってそれを見つめている当の女じしんだ。女にはそんな写真を撮られた記憶はまったくない。しかし同時に、その写真に写っている二つの被写体の一方が女本人であり、もう一方の猫もまた、5年後の現在も女の同居人である男といっしょに彼らのアパートに暮らす飼い猫にほかならないという事実を否定することもできない。写真を見せられた男のほうもその事実を確認する。わたしがそこにいることは間違いないけれど、わたしがそこにいないことも間違いないという、「いるのにいない」の方式でしか表現できない事態が女の前に現われている。謎のタネはほどなく解明する。写真に開いたピンの穴の小さな跡から、それがおそらく、今となっては明確な顔立ちを特定しようもない謎の男によって5年前のある日ひそかに撮られたもので、女を慕っていたのかもしれないその男にとって写真はいわば壁にピンどめされたブロマイドのような役目をはたしていたのではなかったか、女がその気配にはいっさい気づかないまま5年ものあいだ、女は何者かの視線に見据えられつづけていたのではなかったか──、そのような憶測をひとまずの結語としてはなしは結ばれる。写真の被写体としての人物だけが「いるのにいない」のではなく、女のイメージのなかで、ここでは写真の対象を見つめる男、眼差しの主体までが同時に、「いるのにいない」ものとなって、見ることと見られることとの関係がかたちづくる同じ空間の無差別さの方に送り返されている。「いるのにいない」ものとはここでは(三好銀さんの作品では)、どっちかが真実ならばもう一方はかならず間違っていなければならないし、その結果はどっちか以外はない、というようないかめしい規則の支配する空間に現われるものじゃない。見ることがかたちづくる空間のなかで、視線はそれが移動するごとにその先々で、そのつど、「いるのにいない」二つの不可能な肯定を同時に(自乗的に)肯定しなければならないということを(ある肯定がさらに別の肯定とともにあるということそれじたいのさらなる肯定を)、読み手にむかって告げているように感じる。(作品のことばが直截にそう語ってるんじゃなくても、少なくともここでは、そのようなことが現実に見ることを可能にしているということを受け入れてはじめて、作品は自分じしんを読み手の視線に開くことになるという感じがする)。
 「いるのにいない」ものはピンナップのなかの女やそれを見る男だけじゃない。たとえば「ダイエット・アパート」というエピソードにはまた別の女が、やはり「いるのにいない」ものとしか言えないような存在と不在の定かならない動揺のうちに主人公である男女の視界のなかを横切っていくことになる。「もうしばらく秋がいい」に登場する主人公夫婦のアパートの隣人である大地さん夫妻は、「いる」と「いない」、「いない」と「いる」の目にもとまらぬ交換の過程にあって男女の見ることを撹乱する。あるいは、「縁台」に描かれる文筆業の男や「知らない番地」の猫を捜す外国人、「北風番地」の豆腐屋、「マイ・チルドルーム」のガラス屋、「六月の猫たち」に姿を現す(姿を現さない)「マタタビ倶楽部」の男といった存在たちは、作品の絵に描かれた対象のレベルでかろうじてその現存を確認することができるばかりで、その影のような人物たちが夫婦にとって目で見て、手で触れて、機会さえあれば会話を交えることのできるような確かな現存のうちにあるのかないのかは、もはや誰にもその正確なこたえを与えることができない。「いるのにいない」ものたちのこうした形象の連なりには人物だけではなくて純粋に物的な対象も合流していく。夫婦の視界の先をかすめていくものであるという光と影とが条件づける同じ資格において、写真や「ダイエット・アパート」のプランターに実ったイチゴ(知らぬまに嵩を増したり、数が減っていったりするイチゴ)、「もうしばらく秋がいい」の大地さん夫妻の部屋に天井から吊り下げられている謎めいた(近隣の住人たちの噂のなかにだけ現われていたはずの)無数のオカリナ、「縁台」の文筆業の男が門の前に据えてそこに腰をかける「サクラ」がある日現われたり現われなかったりする胡散臭い縁台、または「北風番地」の豆腐屋の気まぐれな到来を告げるサインみたいな赤い紙ヒコーキや、「マイ・チルドルーム」のガラス屋が詐欺そのものの手口で夫婦の部屋のガラス戸にはめた(はめこまなかった)そこにあるのにない、ないのにあるように見える偽の透明なガラス、「寝言でおしえて」で女が古本屋にその所在を見いだし、何者かによって音読されるその行文の充実ぶりがすぐ耳元に迫ってくるにもかかわらず、けっして手に入れることのかなわなかった「猫だらけの本」──、そういった事物の輪郭におさまるべき対象の数々が「いるのにいない」ものとして視線を横切り、見ることの意識のなかで不確かな点滅を繰り返している。それらの形象のうちにもちろん、『海辺へ行く道 夏』の、あの盲点に漂う黒い染みみたいに作品内を移動する黒猫を加えてもかまわないだろう。
 「いるのにいない」ものの形象たちが宿る場所はマンガの描線の黒さ、ベタで塗りこまれた墨の黒さの地帯と、形象としては描かれなかった(いわば「描かれない」ことが描かれた)地の空白の地帯との、その両方にまたがっているように思われる。存在するものとそうでないものとがそこにおいて明確に区分けされるはずの紙のうえの図表的な条件のレベルを不断にほころばせるという意味において、「いるのにいない」ものの属性は身元不明で行方不明のものでもあり、所在も不明で、なお同時に、あらゆる場所に姿を現すものですらありうるだろう。人物や事物の胡散臭い、処理しがたい怪しさのうちに見る者の瞳を捉えるそれら「いるのにいない」対象たちの暗躍めいた活動は、同時に、それを見る者たちの存在をも怪しからんものにする。そこに、「ピンナップ」に描かれた(描かれなかった)盗撮写真を見つめるあの影のような男の存在がふたたび思い出されるけれど、5年ものあいだ一途に被写体の女を見つめつづけた男の、一方通行的で見返されることのおそれも期待もなかった視線の、その単線的なありさまが怪しさの核をかたちづくるものではないだろう。「いるのにいない」ものの半透明なこの怪しさは、ピンナップ写真の表面とその周囲で想像的なイメージをもまきこんで、そこに集まる視線の数々をたくさんの方向に散乱させ複数に分割し交錯させていく。写真のなかであらぬ方向を見つめている飼い猫、同じ水準でそれをほほえみながら眺める5年前の女。その写真の外部で、写真に写ったすべてを見つめる正体不明の男の視線(男の部屋のピンナップのとめられた壁にはその写真と並ぶように鏡がかけられていたかもしれない。鏡には男がピンナップを見つめるときいつでも男じしんの横顔が映りこんでいて、その横顔は、男の眼差しとはまったく別の虚空を、男の眼差しにこもる同じ情熱でもって、静かに見つめつづけていたかもしれない)。5年前に撮られた対象としての写真をいま見出す女、そこに写りこんだ被写体としての女じしんと飼い猫を見つめる女と同居人の男。そこからひきだされる、女のイメージのなかにだけ見出される、イメージする男の横顔のイメージ。ふたたび、写真のなかの猫のあらぬ視線とそれを見つめる女の眼差し。その全部を見つめる女と男の視線、そのかたわらでイメージに現われる謎の男の視線。男のかたわらの鏡のなかからあらぬ方向へと視線を注ぐ男の別の視線。またしても写真のなかで……、という具合に、以下無限定に視線は別の視線をいざなって視線の運動じたいを見えるもののこの場所で複数に増殖させていく。視線は螺旋に回転する構図のなかでその周囲に放射状の光の矢をところかまわず射かけていくみたいだ。視線が無限定に動きつづけるとは、視線とその対象がともども、見えるものから組織されたこの世界の表面から居場所をもたないものとして終局的に不在と沈黙のうちに沈みこんでいってしまうということじゃない(そういうことがありうるとしても、三好銀の作品のなかではそれは、それだけとして見るならば、ほとんど問題になっていない)。たとえばそれは、「これがそれか」という問いかけに対して「これはそうじゃない」という無限定のかたちでこたえを繰り延べていくのではなくて、それに対しては、「これもそうだ、そして、それもまたそうだ」というかたちで限定の累積によってこたえを返すもののように思われる(そこには限定がないというよりも、むしろ過剰な限定がある)。「いるのにいない」の言明に対しては、即座に、「いないのにいる」という対句が口にされる用意ができている。
 視線を誘導することとそれへの散乱と複数化のはたらきかけによって特徴づけられる「いるのにいない」ものの特異な限定性は、作品のなかで「ピンナップ」以外の場所にもいくつか印象深い光景をみちびいている。たとえば「縁台」に描かれるある場面には、「いるのにいない」文筆業の男によって彼の家の門の前に「どなたでもご遠慮なく」座れるよう解放された縁台が、「いるのにいない」利用者(男の家人によるサクラ)をのみ引き寄せていたという無様でちょっとほほえましいようなエピソードが語られるけれど、そこにおいて特徴的な光景をかたちづくるものが、やはりこの風変わりな対象の周囲をかこむようにして現われているさまを見ることができる。ひとまず一方的な見られる対象として近隣の住人たちの生活圏に闖入するこの縁台は、その出所の怪しげな奇特さにふさわしく人々の好奇の視線をその場に取りまとめる。三好銀の描写は日をたがえてこの縁台の周りに集まる人々の顔と後ろ姿を二度繰り返し描いているけれど、すでに複数の視線と思惑によってその数だけの別の表象物としてばらばらに存在しはじめているであろうこの縁台と人々の姿は、その集団の背後から場面全体を眺める主人公夫婦の視線によってさらなる倍化をこうむっていると言えないだろうか。対象とそれを見つめる視線、その視線の持ち主ともども場面の全景を見つめることで、背後にあって、見るものを見られる対象の水準に捉え返すもういくつかの余剰的な視線。コマに描かれる配置関係においてしばしば奥行きにそった三層の構図をかたちづくるこのような特徴的な光景は、「パンツ」と名づけられたエピソードにも見やすく繰り返されている。(あるいはひょっとしたら、しばしば人目を惹かずにはおかない対象が目の前に現われて夫婦の視線の位置を画面の奥行き方向にずらしながら並べていくこの作品において、三層の構図はことがらの理念的な常態であると言ってもいいのかもしれない)。各エピソードの核心において夫婦の視線の前に姿を現す「いるのにいない」風変わりな対象たちは、純粋な見られる対象のままの状態にありつづけることはすくない。生き物としての猫がいつでも可能的にそうであるように、それはおのれを見つめるものの視線にむけて積極的にこれに絡まるようにじしんの視線を送り返すことで、見られるだけの対象的な死物の次元から見ることの可能な場所へと抜け出しやってくるとさえ言えるだろう(切り身にされて冷凍庫にしまわれていた鯛ですら息を吹き返す、そのことの可能性)。こうして縁台もパンツも赤い紙ヒコーキも、ピンナップ写真すらも、すくなくともある特別な瞬間には、見られるだけではない、それを見ていた者を背後からあらためて見返すものとしてのじしんを事物の次元で見出すことになる。紙ヒコーキや縁台は彼らなりの仕方で町の住人たちの動向を確かにうかがっているだろうし、さらし者にされたパンツはパンツの流儀で庭先からその落とし主の男の到来を見張っているだろう。「いるのにいない」あの怪しげな人物たちの視線は言うまでもない。「ピンナップ」のなかで見ることができた偏心的な構図のなかでの散乱的な視線の動きが、もっと簡潔に、対象とその背後でそれを見る夫婦、その最小限三つの形象からなる一コマにおさめられた構図のなかで、まったく同じ効果を発揮することができる。この三つの形象の顔を正面から捉えた(それじたいとしては変化に富んでいるなどとは言いづらい)ごく変哲のない絵の配置の理念的な裏面として、この作家がしばしば描く、風景なり事物なりを正面から見据える人物たちのそのさらに背後から、当の眺め全体の後ろ姿を視野に入れる位置に仮想された構図といったものがあるのかもしれない。そこにあらかじめ想定されている新たな視線の持ち主として、作品のなかですでに起っていた「いるのにいない」というできごとをさらに広範囲に散乱させ複数のものに送り返すために、いまや遂にわたしたち読み手こそがそこへとむけて誘われようとするもっとも怪しげな招待状の一通を、作品とともに、この手に握ることになるのかもしれない。