ジャック・ランシエール『イメージの運命』

 小説の描写のことを考えるときにきっかけになりそうことをメモ。というか、メモとも言いづらい混乱ぎみの走り書き。
 ランシエールは「表象不可能なものがあるのかどうか」という論考のなかで、芸術の表象的体制そのものを基礎づけながらこの体制における諸芸術の技術と精神を制約してもいる三つの決まりごとを定義している(表象的体制っていうのは美学的体制と対になる概念区分で、後者がざっくり19世紀のあたまあたりにその開始を告げる以前の、おそらくソポクレスくらいにまで影響範囲が遡れる西洋の芸術史において、エピステモロジークで動因論的でもある組み込みをかたちづくるような、ある種の権力的な体制。この本の各論でおもに展開される議論では、フーコーのいう古典主義時代に相当するような時代の作品を含んでる)。芸術の表象を制約していた三つの決まりごとっていうのをものすごく粗く言い直してしまえば(というかランシエールのここでの記述はかなり繊細で複雑な文彩を駆使してるんでそれ以上に適切に彼の言ってることを要約することはむずかしい。じっさいに著作にあたるほうが理解に間違いはない)、それは、1)ことばは見えるものを取り仕切る。2)物語のことばは知ることと感情との関係を見えるものの表面で適切に分節化する。3)こうしてことばと見えるものとで構成されるフィクションの層を、現実の経験的な層とじゅうぶん分離する。やばいくらい端折るとこんな感じ。三つの事項はそれぞれ当為の形式で言明されている。まず3にかんしてはここではあまり言いたいことはない。1と2の手続きをふんでかたちづくられた所与のものとしてのフィクションが公衆の経験とのあいだに転移の通路を開く、その距離の調整や、おのおのの層に固有の合理性をおのおのの場所に定礎するその固定化の規則なんかがそこで確認されていることの内実だ(諸芸術のあいだの自律性や固有性とその距離の消滅、また、芸術作品の前に立つ公衆の経験と作品とのあいだの適切な隔たり、その距離意識の廃棄なんかについては、この本の別の論考でもっとつっこんでランシエールは考えてる)。2にかんしても、それは諸辞項の関係によって物語の因果的連鎖をかたちづくる叙述の総体的な構成を芸術作品のポイエーシスに教えてくれるフレージングみたいなもので(アリストテレス詩学が説くようなもの)、直接的には、ことばの描写については語っていない気がする(ただ、それはそれでとても刺激的で興味深いことを言ってる)。小説のことばの経験に対してより親密な視点からそれを考えることを導いてくれそうな洞察は1に要約しうるようなかたちでランシエールが言及している考察の部面にあると思う。
 (第一の制約)ことばが見えるものを取り仕切るっていうのをもう少しまともに言い直すと、ことばは指し示すことと見せることによって見えるものの形象、イメージを(再)現前させ、そのしぐさと相即する権能か限界かによって、同時にことばは、見えるものの形象の裏面に貼りつく見えないものの影みたいな余-現前を見せないものとして隠す。ことばはイメージの力によっていまここに見えるものの姿を呼び出すけれど、表象化がそうして眼前に無事達成されるためには、見えないものへの殺しにも似た事態が同時にいまそこで確かに行われたということが目に見えないよう隠蔽されていないといけない。だから芸術の表象的体制はひとつの否認(あるイメージの殺害の隠蔽)のメカニズムを作動させているし、そのメカニズムのなかでみずからのイメージじたいをフェティッシュとして再生産させていってもいる(殺害の隠蔽という事態が可能にする体制のなかで、殺害の隠蔽というできごとにだけはけっして触れない作品が生産されていく)。ランシエールがここで選んでいる作品の具体例は『オイディプス』だけれども、もちろんオイディプスとはソポクレスのテキストと悲劇の舞台のうえで表象の目に見える対象として現われると同時に、みずから両眼をえぐることでイメージと見えるものの殺害を行う英雄としてもあり、コルネイユ『エディップ』という作品の表象的体制への妥協的な形成と登記(『オイディプス』翻案)のつまずきを読解の力点にオイディプスに再注目するランシエールのしごとは、ある種のフェティシズム批判といった性格を強くまとっている。コルネイユの『エディップ』という作品においてどんな問題が可視化されることになったのか。ソポクレスのことばが描く「目をえぐるオイディプス」のイメージが、コルネイユの表象的体制の舞台で再演されようとするオイディプスの姿との対照において、そのあまりの血なまぐささの水準で見えるもののの過剰を引き起こしかねないことが問題になっている(ランシエールによれば。作者も作品名も初耳なんでいっしょになって頷くことはできない)。表象的体制の視線はそこに、みずから課している禁止の限界線を可視化し認めることになる(同時に、そこにおいて美学的体制のネガティブな規定が浮かび上がってくる)。ランシエールと『言葉と物』のフーコーがそれぞれ当面別個の対象領域(芸術史と人間諸科学の諸領域)でかたちづくっている「表象の限界」という事態に対する問題意識のあり方は、ひょっとしたらこのあたりで一瞬交差するのかもしれない(サドを読むフーコー)。それはともかく、表象的体制をめぐることばの描写的特質はまずこの第一の制約の水準に見出されることができる。というか、ランシエールの議論を敷衍するなら小説の描写というものは表象的体制のこの水準には、事実としても権利としてもけっしてそれじたいとしては見出されることができないものであるということが明らかになるように思う。パロールは行為や人物の形象といったもろもろのイメージを紙のうえや舞台上に描くことができるけれど、それらはある充分に調整された範囲内で表象的体制の経済を撹乱させないようよく考慮されたうえでのみ、個別のイメージを提示することが許される。ホメロスの綴る行文をどんなに読んでみても、わたしたちはそこにオデュッセウスが行うことの連鎖によってかたちづくられるもろもろのミメーシス的な身振りを再認することができるだけで、そこにもっとも強く見たいという欲望をかきたてること──たとえば彼の足に刻まれていた傷痕の細かな様子といったものをイメージによって見えるようにしてくれる描写の可能性などは、まったく奪い去られてしまっている。表象的体制におけるパロールは行為(物語において積極的な役割をはたすもの)の似姿を描くことはできても、(オイディプスのえぐられた目の場合のように)極限的にはあるひとつのイメージの提示においてそれじたいで重層化しうる描写対象の、それがまとう受動性や物質性といった不透明な暗い地層や非人間的な運動性といったものを描いてみせることを周到に除去しているし、またそれを、その描写の可能性の除去のしぐさじたいを除去する二重の封印がほどこされたものとみなすことができる。ことばの描写性は、表象的体制における砦の防衛をうながす敵陣の狼煙としてしるしづけられてあるし、同時にその体制に帰属する諸芸術にあって乗り越えがたいデッドロックとしてもある、いわば二重に構えられた堅固な要衝みたいなものだ。ともあれ小説の描写の積極的な可能性は、表象的体制が「表象不可能なもの」として退けるこの、物の非人間的な運動性や知覚によっては捉えがたい細部のちいさな亀裂や隆起、陥没、傷痕、光や風の一瞬の現われや消失といった世界の表面を流れていく受苦や受動の瞬間の継起の場面にその全面的な開示の場所をもとめることになる(らしい)。つまり芸術を規定していたパロールは、以後すべてを見えるものの表面において捉えようとすることを使命とするだろうし、「表象不可能なもの」ではない、端的にことばによっては表象されえない対象や事がら(そんなものはこの世界に無数にあるけど)にむかっては、見えないものがそこにあることを率直に言明することを倫理的な義務とするだろうし、またとりわけ、たんに見えないものの即物的な特性を「表象不可能なもの」の空虚な中心にすえてなにかを語り出そうとする錯誤や欺瞞の身振りに対しては、それへの戦いをじしんの責務とすることになるだろう(ランシエールにおけるリオタール批判)。ランシエールのテクストは、そのような小説のことばの限られた幾つかの務めを、フローベールバルザック、ゾラといった作者のテクストから投げかけられたことばにむけてこだまさせるように増幅して送り返すことで、それを果たそうとしている。
 取りざたされてる映画や現代芸術の個々の作品に対する読解やそれらの作家に対する判断なんかは教養がなくてまったく理解の埒外なんだけど、いま見てきたような点に限ってはこれは大枠ではとても納得ができるものだと感じた。