ウラジーミル・ソローキン「青脂」

 クロード・シモンの「農耕詩」といっしょに『早稲田文学3号』に掲載されてた作品で、こちらもテキスト全体の約3分の1ほどの部分的な訳出とのこと。ソローキンってはじめて読んだ作家だったけど(名前を聞いたこともなかった)、これは面食らった。そしてけっこうおもしろい。おもしろいんだけど、やっぱりよく分からない作品だった。ただこの作品の分からなさは、クロード・シモンの場合とはだいぶ感触が違って、たぶん、物語がまだようやく動き始めた段階で掲載分のテキストが中断してしまっているからという単純に分量的な理由が大きいんじゃないかと思う。(逆を言えば、「農耕詩」の分からなさは、テキスト全体を読み通してもそう簡単には解消されないだろうというイヤ〜な予感がある)。あと個人的に、たんに読むこちらが、そこで一篇の最大の読みどころのひとつになっているはずのパスティーシュの、その対象になっている作家たちの作品をほとんど読んだことがないという無教養まるだしな点も、いまいち作品が分からないという実感の原因だ。それでも、作家がこの作品でやろうとしていることの一端はなんとなく伝わるような気がする。エクリチュールのざっくりとした感触として、一読しただけじゃ掴みきれない規模を持ったいろんな要素の混在した状態を紙の上に産み出そうとしているのかな、と感じる。贅沢な食事をもりもり食べて得体の知れないアルコールをあおり、そして盛大に、豪勢な糞便*1を生産する。エクリチュールの混交的な糞便的形態みたいなものをパフォーマティブに産出しようとしているのかなと感じる(作中でテクストを書き終えたクローン作家たちの背中や関節から滲出する脂身みたいに、余剰的な産物としてのエクリチュールパフォーマティブで展覧的な糞便的効果が掴まれようとしているように思われる)。つまりメラニー・クラインの発達段階的な整理にならえば、カニバリスティックでサディスティックな口唇期と肛門期を舞台にした妄想-分裂的ポジションへの主題的執着がとても目を引く(同じこの物体の混在した状況を再整理して、たとえば『意味の論理学』のドゥルーズは、それを深層にある恐怖の劇場における取り入れと投影の機制によるシミュラクル対象の分裂的反射運動として祖述していた)。だからここでは、主人公である話者によって東シベリアからモスクワへと送達される予定の、彼と同性愛関係にある若きパートナーへの恋文めいた手紙の文言にセックスや肛門、ペニスなんかにかかわる直截的な猥語があられもなく書き綴られているけれど、それを読むこちらの感触としては、性愛的な色合いはごく希薄にしか感じられない。そこではエロティシズムみたいな官能的で精神的な事柄が問題になってるんじゃなくて、ほとんど物質的といってもいいような、文学史へのポストモダン的なコミットメントや多言語活用、インチキ造語の紙上への横溢やメタフィクショナルな作品構成の操作といった、エクリチュールの蛮行めいた混在による幻惑的な効果こそが狙われているように感じる。訳者の方の解説によれば、この作品はロシアで「猥褻本」として訴えられたらしいけれど、検閲とか抑圧をめぐる戦略におけるエロティシズムの範疇と物質的な(非性愛的な)混在との幻惑的な関係を簡潔に示す小話がこの作品のなかにも例示されてる。

(四) 好きな小話(永久凍土みたいに古いやつ)──ヤクートにおける便所設備。棒が二本ある── 一本目が凍りついた’’’を肛門からほじくり出すため、二本目は狼を撃退するため。トップ-ディレクトなユーモアじゃないか。なあ?

(594頁)

 一本目の棒が肛門からほじくり出す対象(端的に、「ウンコ」でしょ?)は伏字によって抑圧されることで検閲をくぐり抜けその直截的な「猥褻」なさまは回避して遠まわしに筆紙に書きつけられることができる。一本目の棒における伏字の採用によって、二本目の棒も、その棒が対象とする狼も、安全に、はばかることもなくあらわに綴られることができる。検閲がほんとうにその締め出しの働きの対象にしなきゃいけなかったのは、しかし実は、一本目の棒の対象なんかじゃなくて、棒そのものの存在であるはずだろう。棒とはここで、母親に対するギフトや償いの役割を担いうる(幼児における性理論的な意味での)糞塊を意味的に吸着する対象であるし、同時に、狼のように野獣的で食人的な本能によって同じ母親の身体を内部から破壊しつくす象徴的な対象でもある、深層に取り入れられ再投射されたペニスの、肛門性愛的な振る舞いを示してもいるだろう。抑圧がほんとうに成功するためには、この棒によってはじめて可能になる糞塊-狼-ペニスの三組の対象からなる相補的で循環的な構成そのものの、「猥褻」をはるかに凌駕するより過激な恐怖の劇場における「危険性」だったはずじゃないだろうか。その意味で、ここでの伏字による検閲はどう見ても無様に失敗していて、好ましい小話としてそれを語る者、聞く者に二度目の笑いを誘うものとして歓迎されている(言いたいことははばかることなく言い切った、みたいな満足感とともに)。この小話はだから、「青脂」という作品におけるパフォーマティブな効果の中心紋みたいに、小さなイコンを形づくっているのかもしれない。さっきは豪勢に飲み食いして、ふんだんに排便する、みたいに小説の雰囲気を粗描してしまったけれど、猥褻事件(みたいなものがいつ自身の身に降りかかってもおかしくないという現在のロシア社会と芸術行為との危うい関係)を巡る作家の置かれた情況なんかを反映しているのか、実は主人公は、作中での設定で前立腺を患う中年男性として描かれており、節食を念頭に置きつつ食餌療法なんかをひたむきに実践してすらいる。だから単純に、自身のエクリチュールにおいて、文学史や外国語やジャンルを越境して貪婪に摂取した他者のエクリチュールをシミュラクルさながらに混在の相で再投射している、とだけ作品を見るのは間違っているのかもしれない。作家の現実的な執筆を巡る外的な情況そのものが、苛烈な痛みをともなう前立腺の失調として、小説の細部に、それこそ摂取-投影の機制のもと、エクリチュールを貫通して捉えられているのかもしれない。
 書簡体小説の形式から見た場合はどうだろうか?*2とか、ここで要点を絞って注目したことだけじゃなくもっといろいろな観点を提供してくれる、とても刺激的な作品だと思う。なにより、物語の続きが気になる。ソローキンという人の別の作品も読んでみたいし、楽しみが増えてよかった。あと、タイトルは「せいじ」と読むのか「あおあぶら」と読むのか、それともまた別の読み方なのか。「せいじ」と読んでるけど。

*1:*1書簡体小説として読まれる作品のことばは、それが手紙として「クローン-伝書鳩」の体内でカプセルに包まれることによって相手の宛先へと送られることになる(517頁の記述)。だからおそらく、手紙は文字どおり、鳩の糞便とともに、糞便として、相手に受け取られることになる。

*2:手紙の送達の遅延だとか、恋人どうしの距離の疎隔みたいなことを考えに入れなおすと、今まで見てきたような物質的な混在の相からかなり離れて、ごく良質の恋愛小説のような姿が現われ、小説の風景を悲哀的で喪のような感情の色合いに一変させる。《(……)鳩どもが到着したら、お前はこの手紙を開いて読むだろうが、私は刺青のあるお前の背中に寄り添って寝そべりながら、そこにピスタチオの皮を放り投げ、お前の洟垂れ声を真似て、お前が今どこを読んでいるか当ててやろう。そんなふうになればいいな、リプス。》(587頁)。