クロード・シモン「農耕詩 I」

 『早稲田文学3号』に掲載のクロード・シモン『農耕詩』の第一章。これは凄い文章だった。圧倒された。エクリチュールのうえで何かたいへんなことが起っていることは感じるんだけど、厳密にはよく分からない。悔しいけど、何が凄いのかもよく分からない。同じヌーヴォーロマンの作家でも、何作か読んだことのあるロブ=グリエの作品なんかは、茶目っ気というのか意地悪というのか、ともあれ読み進めるうえでの手がかりになる(さも食いついてごらん、とでもいうような)疑似餌みたいな取っかかりが読者の目につくようにちらちら提示されてた気がするけれど(推理小説っぽい構成だったり精神分析的な解釈をミスリードするような細部だったり)、この「農耕詩」にはそれっぽい足がかりもほとんど見当たらなくて、小説のことばがそれを読む意識のペースを顧みずにじゃんじゃん先に進行していってしまって、そこから振り落とされないようにしがみつくように後を追うのがやっとの状態という有りさまだった。(そしてその、文章に圧倒される感じがたまらないことも告白せざるをえない)。気になった点をすこし控え書き。
 
「農耕詩」に書かれる三人称の代名詞「彼」は、訳者の芳川泰久さんの解説によると、場合分けに応じて、時間と場所を違えた少なくとも三人の人物を指示しているという(しかし、ある一人の人物の年齢を違えたそれぞれの様子が描かれるからには、すでに一人は複数だ。だから、「少なくとも」三人)。固有名詞によるあらたまった断りも同定の手続きもないまま「彼」という同じ一語のもとで描かれる各人物の行為や状況の叙述は、それら人物どうしの類縁的な相似性もあって、しばしば、厳密にはどの「彼」を指示しようとするものなのかまったく見当がつかない場合におちいる。つまり、改行のない地の文の広がりのなかで、ある文と後続する文との断層が目に見えない状態であっちこっちにエクリチュールの亀裂を走らせている。物語内容や小説の筋道といった水準でのまとまり(何が描かれようとしているのか、何がことばによって再現されているのか、みたいなものを把握可能にする統一性)は、ある文やそれを単位に形づくられるまとまった言説群からだけでは形成されないんじゃないかと思う。任意の文や言説単位は、それに直後に後続して事後的に前の文を裏打ちしにやってくる別の文や言説単位との関係のなかで、最初の一瞥から、「再び」見出されたものとして現われるように思う。『彼は城館に南向きのテラスを取り付けさせる。』。こういう関係を示すなにげない平叙文も、実はそれだけではフィクションの内部の適切な位置に着地させることができない。後からやってきてこの文をしかるべき配置の関係性のなかに固定する重しのような別の文がなければ、文は、文として読まれるだけで(目に見えて、耳に響くだけで)、フィクションの要素としてはほとんど何らの価値を担うこともできない(亡霊のように、読めるけれど、読めるそこでは決して掴めないものとして、半透明にしか現前しない)。ここには、順番に1にいくら1を足していっても最終的な言説の価値はそこに現われない、というような統辞論的な線状性の逆説があるような気もする。文も語もシンタックスの過程で最小の単位ごとに要素を積み重ねられなければ形態化されない。しかし同時に、あらかじめ予期される意味の最大範囲をつねに超える不可視の亡霊的で無形態的な効果の助けがなければ、文は形態化へと一歩も踏み出すことができない。文は形態化して前に伸びていくためには、つねに文の不在の非-場所のような効果の領域から後方に向かって伸びる力を浴び続けていなければならない。お互いに逆行して不在と現前の境界面で衝突し、砕け散ることによって、結晶みたいに形を現すことが、文というものの現われのひとつの粗描になるんじゃないかとイメージする。「農耕詩」の文の読みづらさというものがあるとするなら、それはひとつには、このエクリチュールの価値や物語の意味内容を決定するはずの不在の領域から裏地を張るもうひとつの別の文が、しばしば、断層を越えてイレギュラーするように、とても複雑な交差的な過程をくぐり抜けて突如姿を現したり、あるいは同じ亀裂や断層の線をたどって不意に姿をくらませてしまうからなんじゃないだろうか。このようなエクリチュールの混線の層が、三人以上の「彼」、そのことばの等義性を結節点にして、しきりと「農耕詩」の言説の内部を移動しつづけているように思える。そして無論、そのようなエクリチュールの生動は、たとえば相互にまったく無関係な複数の言説内容を気ままにシャッフルして適当に一篇にまとめるというような無償の実験性や恣意性とはまるで関係がないことは言うまでもない。「農耕詩」全篇を目にしているわけじゃないから確かなことは何ひとつ言えないけれど、そこでは、『意味の論理学』のドゥルーズのことばをかりれば、「存在の一義性(単声性)」の概念を図表化しエクリチュール全域に行き渡らせでもするかのような、試みのとても厳密な操作の感触がみなぎっているように感じる。
 もうひとつ気になった細部について。「彼」の一人(帝政時代の将校だった「彼」)による発話内容を示す引用符つきの直接話法文(会話文)に不思議な表記がある。《「……多くの騎兵たちの求愛の対象で、私はみんなに打ち勝ち、H…r嬢はアムステルダムで最上の家族の出身で、われわれの趣味が一致し……」》(484頁。ゴチック体は原文) 。イニシャルと末尾のアルファベットだけが表記されて、あいだを埋める文字が中断符で伏せられているこの「H……r嬢」の名前は、現実的には、どうやって発音されればいいんだろうか。一人物の話しことばの筆写であることは前後の鉤括弧の存在から明白であるにもかかわらず、この発言の書きことばによるここでの再現は、本質的に失敗を余儀なくされているように思う。発音できないHと中空に放り投げられたように母音から盗まれた子音r、そこに挟まれた沈黙の帯気音の気配だけが漂いはじめて、エクリチュールはその時すべての力能を失ってしまっているみたいだ。そしてその時こそ、エクリチュールエクリチュールとして、話しことばの再現に従属する地位から解き放たれて、その力をもっとも強く現勢化させようとしているようにも見える。同じ性質をもった記述の細部として、たとえば、挿入符「()」の内部に新たな別の挿入符を入れ子状に差し入れたり、開始した挿入符を開いたまま閉じずにおくというような操作を見出すことができる。これらのことばの操作の帰趨を見誤ってしまうと、プチブル的な作家の多少複雑なことば遊びといった枠内でしか作品を評価できないことななってしまうのだと思う。(ドゥルーズの本は二冊だけしか読んでないんだけど、たとえば抜群に冴えた『意味の論理学』のような著作でなんでクロード・シモンに言及しないのか、とかもちょっと気になっている。ロブ=グリエの仕事に関しては、二つのセリーの交流の議論にからめてたぶん1,2箇所で好意的に触れていたはずだけど、たとえば戦争を扱ったセリーでクロード・シモンの作品をまったく参照してない事実は何かをそっと告げているのかもしんない。ドゥルーズにはクロード・シモンの仕事はあまりにブルジョワ的なものに見えたのかもしれない。アルトーなりルイス・キャロルなりの作品が存在と言葉の第一次秩序や第二次組織の発生をその条件に根底からかかわる本質的な場所で問いただしているところで、クロード・シモンの仕事は、言葉の第三次配分の表面でぐるぐる戯れているだけに映ったのかもしれない。ドゥルーズに詳しくないから他で言及してるのを知らないだけなのかもしれないけど、やっぱり気になる)。
 
 何はともあれ、翻訳が無事に成功して全篇が発表される運びとなることを強く願う。難事業であろうことは火を見るより明らかだけど、翻訳なんとか頑張ってほしい。