市川春子『虫と歌 市川春子作品集』

 まったく知らない作者だったんだけど、最近ちらほらと評判を聞いて気になっていて、ものは試しと単行本を買って読んでみたら、これが抜群におもしろかった。なるほど、これは世間がほっとくわけないな、と納得した。4本の短篇が収録されてる作品集だけど、どの一作からでも、ここに収められてる彼女の作品を雑誌掲載時にリアルタイムで初めて目にした人は相当びっくりしたに違いない、と感じる(とても幸せな作品との出会いかただと思う。羨ましい)。4本の作品すべてがとても高い水準でまとまっているのは、年一本くらいの寡作といってもいいような腰を据えた姿勢で、着実に、とても丹念に、自分のやりたいこと、現実に出来ること等を考えながら仕事に向かっているからなんだろうな、と思う。すごく好感がもてる。寡作なマンガ家といえば高野文子を思い出すけれど(もちろん、この市川さんという人はキャリアを積み始めたばかりの作家なんだからそんな大ベテランとの執筆ペースの差を比べるのもあれだけど)、しかし作品を読んでると、現に、年に一作のペースでは作品を発表してるにもかかわらず、高野さん以上に、この人の次の作品がほんとうにこの先読むことができるんだろうかみたいな、危うい、とても繊細な感じがじわじわ漂う。だから、この単行本に収められてるこれらの作品をまとめていま読むことができることは、ちょっとした奇跡みたいなものにすら感じられる。よくぞ描き続けてくれた、みたいな。(ここから先の景色にもじっくりと進んでいってほしい)。いつ筆を折ってもおかしくないっていうその危うさの感覚はなんだろう、この作家の繰り返し描く主題(物事や身体の可塑性、弾性、と同時に提示される、それらのいとも容易い壊れやすさや傷つきやすさ、分解可能なさま)に読むこちらが勝手に感染しちゃってるだけなのかもしれないけど、そこで繰り返される主題を前にして、徹底して貫かれようとするそのラディカルな仕事の執拗さに読んでいるこちらがちょっと怖じ気づいてしまっているのかもしれない。ここで終わってしまっても読ませてもらってるこちらとしては何も文句は言えないよなあ、と思わせるほどの反復の強度が確かにここにはある。
 この人の作品に登場する人物たちは誰も彼もとても壊れやすい。正確には、誰もかれもじゃなくて、子どもたちに限っては、と言うべきかもしれない(父親的な人物や母親的な女性はその限りじゃない)。人物の壊れやすさとは、別に心理的なナイーブさだったり傷つきやすさの次元にあるのではなくて(それだけではなくて)、ここでは文字どおり、人はその構成要素への解体や分解からそれらを用いた(再)組み立て可能性へと到る壮大な実験過程の全工程のどこにでも組み入れられうるものとして捉えられている、という意味での壊れやすさだ。人はそこでは、男の子の切断された指先や女の子の腕を培基にしてクローン生物のように生殖行為もなくこの世界に増殖していくことができ、また、六角ナットみたいな薄っぺらな金属部品やバラバラに砕けた機械部品の欠片から世界に、魂を備えた人のかたちとして、全的に出現することだってできるし、おそらく同様の過程を逆転することによって、雷に打たれたり存在的な破裂を受け入れることで人のかたちをあっけなく失い、彼らが元あった塵や部品、昆虫や植物や鉱物からなる無名と沈黙の世界へと帰っていくこともできる。だからここでの壊れやすさとは、同時に、ある圧力やプログラムに対してつねに開かれていて、その操作を受け入れることによって人物や物事がこの世界へと個物として生まれ出ることをも可能にするプラスティックな特質と一体化して見出されている。けど、それは、人は、単純な機械みたいには構成されないし混沌みたいな状態から無作為にポコンといきなり現われるわけでもない。利用可能な可塑性はそこにおける構成部品の独特な配分によって、ある操作や手続きの過程から人の姿を現すことになるし、その配分の解除が、人を、今度は、分解や消滅の方へと送り出すことを可能にしている。機械部品や塵の一塊を、心や魂をもった人物たちへと変成させるその圧力や配分の手続きは、ここでは家族的な編成といってもいいように思う(4篇中、「ヴァイオライト」という作品だけは家族の編成みたいなものとは直接には関係してないような気がする)。市川さんという作家の作品のなかで子どもたちの誕生や死が直截に主題化されなければならない理由はここらへんにあるのかなとも思う。自己の存在における日常的で通常な世界への感覚が、子どもたちの経験において、家族の構成する感情的な場へと参入する以前の非人称の塵からなる雲のような分布へと解けていく、そういうような過程の感触が、なんとかして再認されようとしているようにも感じられる(その意味で、取りざたされる主題の反復とともに、物語の基本的な認知の構成も類似した繰り返しを幾度も示す)。子どもたち、と言うより、もっと正確には、双子やクローンのようなきょうだいのカップリングが物語に要請される理由も、その家族の編成における問題の構成にかかわってるような気がする。クローンも兄妹も、原理的には無際限に増えていくことができるものだろう(クローンはどうか分からないけど)。まったく同じだったり類縁するものごとが増えていくことは、それだけでもう、存在するものの固有性や識別可能性にとって脅威であり、その解除をより優位に進めることを可能にしていくように思う。隣り合う二本のすみれや並んだ二個のナット、同じ遺伝子をもつ二人のクローン、それらがお互いの方を向き合って並ぶだけで、もうすでに、位置と場所の仮定的な助けなしには私たちには名前を呼びようもないものたちになるんじゃないだろうか。そこにたとえば、記憶や愛といったものが一個のボルトナットに宿るとき、いったい何が起こるのか。そんなようなことを市川春子というマンガ家は描こうとしているんじゃないのか。この単行本を読んでそんなことを想像してみた。(もちろん、この人の描く絵もすごくいい。好きだな。あと、「虫と歌」には、高野文子の「黄色い本」へのオマージュみたいな光景を描いたコマがあること書き忘れていた)。