ビュトール『時間割』

 二年ぶりくらいに再読。おもしろかった。久しぶりに読んで気づいたけど、この小説の推理小説っぽい結構というのは、主人公のアドレセントな、まったくおっちょこちょいな奴と断じてかまわないような、惚れっぽかったり過度に思い込みの激しかったりする未熟さ、若輩ぶりにずいぶん依拠してる。いわゆる、「信頼できない語り手」みたいな性格のもとに造形された人物なんだけど、主人公ジャック・ルヴェルはたんに読者の読みをミスリードしたり裏切るだけじゃなくて、読み手の予断する推理小説というジャンルに対するフレームそのものをなし崩しに流産させて拍子抜けさせる。人を食った人物造形。嫌いじゃないです。
 それとは別に。『時間割』は日記小説という形式をとった作品だけれども、物語の主人公であり話者である「ぼく」の記述は、日記というものが本来そうであるような、その日あったできごとを書きとめていくことを義務とすると同時に、さらにもっと遠い過去の記憶を現在へと繋ぎとめるため、それらの錯綜しがちな記憶の、現在へと連絡しているはずのもつれた糸のかたまりを一本ずつ解きほぐすためにもまた、書き継がれていこうとする。書かれるべきできごとは7ヶ月前に端を発しており、そこでの記述の理想は、倦怠と無力感の浸潤にしだいに窒息の度合いを深めながらも日々の絶え間ない筆記行為を継続させることによって、もつれた糸玉を丹念に、根気強くほぐしていき、そこからなんとかして記述の現在に追いつき、記憶を忘却のへりから救い出すことにある。できごとどうしの混迷した諸連関を、書くという行為によってエクリチュールの網の目に織り上げようとする話者ルヴェルのそこでの試みは、しかし何かを書くということが不可避的に招きよせてしまうさまざまな不透明さの混入によって、書けば書くほどに彼を別の横道、別の新たな袋小路、別の悪い迷路へと引きずりまわしていくことになる。書くことの完遂(よく書き、かつ、充分に書ききること)を阻害するものは、記憶の欠落や混迷だったりする場合もあるし、均等にのびるべき枝葉の分枝の、思わぬかたちでの過剰で突発的な生育であったりする場合もあるだろう。日々の労働に削られ、睡眠によって切りつめられる物理的な時間の制約がルヴェルの足を引っ張るし、不意の怠惰や疲労が彼の気力を奪いもし、また予想外の不如意が書くことをとどこおらせもする。そこであったすべてのできごとの記述という書くことの完遂の不可能と同時に、書くことの持続の問題がルヴェルの身に課される。記述の欠落や障碍物といった抵抗体の感触を唯一の頼りのようにして、カフカの巣穴のけものの営巣行為のような具合に、終わりのない拡張と浚渫の作業が継続されていく。そこで全体の不可能や不在や空虚といったものをあらかじめ織りこんだうえでの、否定神学的なできごとの起源探しが試みられているわけではさらさらなくて、土の中を進んでいくもぐらの肢の一かきがいつでも手がかりにすべき一塊の土くれとの一回いっかいの関係が、ルヴェルと書くこととの関係の最小限度の繋がりのなかにも見出されことになる。悪い迷路、呪うべき彷徨に見えたものが、いまや書くことの真正の課題となって、ルヴェルと読み手の前にその更新された姿を現す。
 眠い。おもしろい。眠い。