ヤーコブソン「言語の二つの面と失語症の二つのタイプ」

 ヤーコブソンの概論的な記述によると、失語症の症状は言語の構造のふたつの極のあり方に相関し、またそれらに強く規定されているものらしい。ふたつの極っていうのは、いわゆる連辞と連合とかサンタグムとパラディグムというやつで、ヤーコブソンのここでの記述では、「結合」と「選択」というふうに把握されている。大別して、言語の結合機能の障害と関連する失語症の型は「隣接性の異常」、選択に関わる場合は「相似性の異常」と、それぞれ名づけられている。隣接性の機能の異常は、正常な文法構造の維持を不可能にする。患者の発話からは統辞的な語どうしの連鎖性が奪われてしまい、幼児のような単語による反応が現われる。文法はそこでばらばらに寸断されてしまうけど、ひとつの語自体がすでに形態素や音素といった下位要素からなる有機的な統合の像としてあるのだから、事態は、語の内部の可塑性をも奪い、それらをあたかも、冷えた、固い石の散らばった姿のようなものにしてしまう。隣接性の障害はことばの運用を相似性に大きく依存させる(相似性の極に追いこまれる)。ある望ましい語なり談話なりからなる反応が結合機能の障害によって阻害される場合、応答は、それらに替えて、隠喩的な代置によって選択可能な別の語を相似性として場に呼びよせる。ちょっと思い出したけど、多和田葉子の「無精卵」に現われる女の失語症的な言語喪失などは、基本的に、この隣接性の失調にそったかたちで記述されてるように思う(「樹木」の代わりに「電信塔」、「庭」の代わりに「四角い土地」というように、それらは辞書的、補足的かつ余剰的であり、相似性の線にそって隠喩の一覧を形づくっている)。
 一方で相似性の機能の障害は、ことばの構造を「べちゃくちゃ」喋りの水準にまで軟化し溶解させて、語や発話をコードやコンテキストと剥離不可能な水準にまで接着し、その粘性によって正常な機能をいたるところで目詰まりさせてしまう。患者の文法からは従属や先行関係を自発的に生み出すような主語が失われて(発話の自発的な始動が先延ばしされつづけ)、その代わりに、コンテキストに依存する後続的な語彙(接続詞だとか代名詞とか)が場を占拠しはじめる。隣接性の異常に見られたケースと対照的に、やはりそこでの機能の喪失は、代替物として他方の機能(隣接性)の不法な強化を求めることになる。相似性にそった自由な代置や選択を失ってしまっていることば(あるいは端的に、メタ言語を失っていることば)は、換喩や提喩の形式によって隣接する語をかきあつめ、横滑りしていくことになる。
 言語がそれに内在的な出口なしの状況をどのような組織のもとで経験するのか、また、そこからどのように自身を延命させていくのか、みたいなことを考えるときのためのメモとして。