言葉の汀、汀の言葉/ソシュール『一般言語学講義』

 ソシュールを読んでておもしろかったところをメモ(正確には、最初読んだときにはすっかり読み落としてしまっていて、気まぐれに読み返したらおもしろいと気づいたところ。本を読むのは人一倍時間がかかるくせに、反射神経がにぶいから、こういうことがよーくある)。スマートにまとめる能力がないので、読んでいる最中イメージしたことを思い出しながらの、手前勝手な控え書き、自分なりのスケッチといった感じで。
 ソシュールは単一な方言を話す集団というものを仮想して、その方言によって言語的にほかの地域からくっきりと区別することが可能になるような(行政的でも地理的でもない)地図を描いていて、そして、実際にはそのような地図を作ることはできないと語っている。言語Aと言語Bがあって、双方を隔てる境界線をハサミできれいに切り分ける具合に区別することは、現実的にはできない。ある単一な方言を話す(と仮に想定される)集団を区切る境界線は隣接する別の言語集団の別の方言の特徴との関係から形づくられているけれど、そのような最初に想定した単一さを確保する線(「等言語の線」)は、さらに別の特徴によって第一とも第二とも異なる言語Cの形づくる線に横断されることによって、すでにその輪郭をぼやけさせられている。そのような方言内部の差異を弁別可能にする諸特徴はごくごく微細なものでかまわない(語の発音の一音節の変化でかまわない)。そして、原理的にも現実的にも、それらの諸特徴の分布が描く波形は無限定に刷新されていくことができる(言語A、B、C、D、E……と、語の要素の差異とそれらが項目となる順列組み合わせのなかで、無限定に連続していくことができる。連続といってしまうと線上での鎖の輪の一次元的な連なりのようなものをイメージしがちだけど、実際にはそれは、星座を描くような形で多方向的に連鎖し絡まりあっている)。方言のあいだでお互いに重なり合い、区切りあいながら微分されていくこの諸特徴の無数の境界線を、ソシュールは、寄せ返す波の動きの痕跡として描き、新たな地図をはじめの地図のうえに描きなおす。波の痕跡といっても、実際は化石とか古い傷痕みたいに「状態」のかたちで静的に見出されるわけではなくて(それだけではなくて)、言語の遷移を可能にする地理上の人の移動はつねに時間のなかで起りつづけているのだから(戦争や交易、移住といった交通の形態で)、波はほんとうに、潜在的な場合はあれ、運動としていつでも地図上の輪郭線を揺り動かしつづけている(しかしまた、言語学者の観察は現実の制約から必然的に共時的な状態の描出で踏みとどまらざるをえないため、記述の場面では、それを、諸力のすでに流れていった痕跡として扱わざるをえない)。方言の諸特徴が伝播する場合、または別の言語地域と競合的に当たって停滞し境界線を目に見えるかたちで形成する場合、このふたつの波動的な傾向を、ソシュールはそれぞれ、「交雑の力」と「地元贔屓の力」と呼んでいる。前者は境界線を越えて別の方言のなかに自分の密輸品のような微細な特徴を上書きさせていこうとする傾向から統合的であり、後者は前者の力から反動的に生じることで検閲的かつ分断的であろうとする。なんにせよ、それぞれの諸島(各方言地域)に打ち寄せる無数の波がしらは拮抗する潮力の関係にその原因をもっていることが明かされている。ソシュールにあっては、島はその厳密な大きさを最終的にはけっして測量することができないものとして現われているといっていいんじゃないだろうか。ソシュール自身も、「(困ったことに)方言は存在しないと言わざるをえない」みたいなことを明言している。それは困ったことというより、こういう認識こそが、ソシュールの告げるよきしらせであるように思う。方言は存在しないというのは、存在論的な定義でそれを記述のなかに書きとめることができないってことだろうと思う。あるいは、全体と部分の関係によってそれを定義のかたちに固定させることができないってことだろう(無限定的な諸特徴の差異の隣接性によって、方言は、垂直的に上位の言語に包摂されることから逸れていき、地理上を横へ横へとつねに自分自身をずらしていってしまう。波の効果)。方言を任意の母語集団というふうに大域的に捉えなおせば、そのような認識は国語の領域にまで拡大することもできるだろう。ひとつの国民言語というような大きなフィクション(観念のつくる虚構物)のなかで方言が波立ちつづけて輪郭を侵食し、ぼやけさせているというイメージ。あるいはいっそソシュールに逆らって、国語のようなものは確かに存在すると言ってもよいかもしれない。存在にすぎない、というかたちでほっといてもよい。ほんとうの問題は波打ち際にだけに現われる。たとえばそのようなみぎわこそが、文学や小説を考えるときにその人が身を置かないといけない場所になっているのだろうと思う。