残雪『魂の城 カフカ解読』

 カフカの長編3作と短篇13本を論じた評論集。ドゥルーズガタリカフカ論がテマティズム的な手法を駆使して、ある作品がひとつの作品となる以前の、その作品のマテリアルとなるような原基の諸構成部品を発見して再組み立てすることにより、ある作品がひとつの作品であるという見せかけの像をついに結びそこねて、そこから網の目のようにみずから伸びながら「作品」を不断に「諸作品」へと拡張する不可避的な横断の力学を跡づけていたこととは対照的に、残雪のこの評論集は、個々の作品を単品のくくりのなかで律儀に、逐語的に、読みあげていき、結果、カフカ作品総体という巨大な神秘が積みあげる全体性の内部に、それらを積み石さながら配置していくという仕方で作品に対峙している(まさに「万里の長城」を造営するような仕方で。その意味だけでも、一人の作家の力が築きあげたこの壮観な建造物としての著作は充分手に取るに値する)。全体性や無限性として残雪に設けられたカフカ読解の前提とは、たとえば簡潔に、「芸術家の不可能な誕生」とか「人間精神の絶対困難な歩み」というようなかたちの命題で表現することもできるかもしれない。残雪の描くカフカ作品の基本的な見取り図は以下のようなものになるだろう。1)法や城のような無限性は、理念としては、「よいもの」としてあらかじめある(Kは否応なくそこにひきつけられる)。2)しかし、法や城は、その超越性ゆえにけっして辿りつけない、いっしゅの「わるいもの」として以外あらわれることができない(Kは現実の活動において徹底してこれらに拒まれる)。3)そしてまた、法や城の外にはなにもない(Kはそこから逃れることもできない。ふたたび、1)に戻る)。矛盾と否定性を糧にしながら無限につづく、けっして開花しない弁証法が残雪によってカフカの小説に埋めこまれることになる。同時に、そこに、芸術家や詩人たちの困難で惨めな、しかし、惨めで困窮と沈淪をきわめればきわめるほど超脱の高みにのぼる彼らの精神の上昇的な軌跡がアイロニカルに記念されることにもなる。長編諸作にかんする論考を追えば、それらは『失踪者』から『訴訟』をへて『城』へといたるカフカの執筆年譜のなかで、Kという特権的な役割をあたえられた人物の精神にあてられる特別な恩寵の一筋の光の光源を認識劇という形式で再確認する、苦難にいろどられた漸近的な作業として浮かび上がってもくるだろう(そして、残雪という特別な一人の詩人の、特権的な孤独といったものも、同時に炙りだされているだろう)。カフカの一連の作品はここでは、贖罪や犠牲の観念と切り離せない個体の精神史といったものの20世紀の一ヴァリエーションに等しいものとみなされている。法や城の制度というような、観念のなかで作られて、歴史のある時点において確かに生誕の日付をもっているはずのフィクションが、起源を忘れられて、さもおのれが永遠にそこにあったかのような不変の顔をして、それを観念する人を観念しかえして悲劇的な虜囚に変えてしまうというトリックがある。Kの精神史を追うという作業はまた、カフカの作品が人物の精神に囲われたものであることを証拠だてると同時に、ひとつの作品から複数の諸作品へ、そこからさらに、エクリチュールから政治領域や社会集団へと延びていこうとする(プロセの、訴訟手続きの)運動的な中継機能を隠蔽し、奪い去ろうとする、反動的な抑圧の勢力に加担しかねないものでもあるだろう。ここには、ドゥルーズガタリカフカの小説のなかにみた「マイナー文学」の諸条件と背馳する、すべての要件が出揃っている(弁証法ハイデガー哲学といった大文字の公式によって小説を照らすこと。作品を個体の精神史に還元すること。そこから歴史性を抜いて普遍的なものだけを読みとること)。「大」文学者としてのカフカ、偉大な文学者としての残雪の、(泥地に咲く蓮の花のような)孤高の姿が屹立している。エクリチュールの犯罪的な横領すら、そこにないとはいえない(純粋な敬意と驚嘆によって対価の払われる他者への恥辱というものがありうる)。しかしまた、そのようなものすらも「わるいもの」とみなしてしりぞけてしまってはいけないことは、カフカの作品そのものがわたしたちにいつでも思い出させてくれてもいるだろう。ドゥルーズガタリもすでに語っていた。《袋小路ですら、巣穴のなかにあって、ひとつのよきものである》。ここを基点に、ふたたび、『訴訟』のKが語るとおり、《使われなかった可能性》、《別の異議申し立て》を検討する試みがリスタートされてもよいはずだと思う。