堀江敏幸『いつか王子駅で』

「いつか」と疑問の副詞が「王子駅で」と場所を指す補語をともない、しかし直後に続いてしかるべき肝心の述部が宙に吊られた恰好なものだから、そこから、たとえば「いつか王子駅で会いましょう」と不定の未来における約束が交わされようとしているのか、それとも、「いつか王子駅であった何がしかの事柄」と、今では確と特定しかねる過去のある時点での出来事が回想されようとしているのか、そのタイトルは、一義的には未来と過去とのいずれか一方には振り分けがたい曖昧さを含意している。その曖昧さに相応しく、作品の叙述は語り手の記憶のなかから零れ落ちてくる過去の出来事や読書体験の回想を積み重ねていく一方で、同時に、何ごとかや誰かの到来を「待つこと」の姿勢を同じ語り手に取らせて未来のある時点での出会いの実現をもおぼろげに示すことによって、ここでのタイトルは、その言葉の指示する内容というよりも、その言葉の姿形が形式的にまとう振る舞いよって、作品の有り様を表示している。とても洒落ている。
「待つこと」はこの小説にあっては特別な主題を形づくっている。「私」の年長の知人で印章彫りを生業にしている「正吉さん」が、ある晩の居酒屋での同席を境にふっつりと姿をくらましてしまう。傍らに残された贈答用の包装を施されたカステラの包みを片手に、「私」とともに読み手もまた、行き先も理由も告げずに作品から姿を消してしまったこの「正吉さん」の帰還を、待つとはなしにぼんやりと待ち続けることになる。「待つこと」についての「私」の自覚的な反省は作品内でもくっきりと語られている。「待つこと」は「待機」とは截然と異なるということが語られる。「待つこと」の時間の持続のなかで、その「待つこと」が然るべき時宜を得て、事後「待つこと」の無為や無益が帳消しにされることが予め期待されているような「待つこと」は、むしろ目的や決済の達成のための「待機状態」とも呼ばれるのが相応しい。「待つこと」にはそのような「待機状態」とは明確に異なるある純粋状態がある。やって来る当てのない何ものかをそれでも「待つこと」、その自動詞的な持続こそがそれだと「私」は語る。「待つこと」の無為の時間が何をもたらすかと言えば、そこに作者は、小説の叙述という言葉の実質を差し出すようにも思う。行きつけの居酒屋でのある晩、「私」に向かって不意に女将さんが声をかけてくる。《失礼なことお聞きして申し訳ないけれど、おととい、鮫洲にいらっしゃらなかった?》(73頁)。以降7ページ分ほどを費やして、作品はこの女将さんの耳打ちが「私」にもたらした不意打ちを契機に、くだんの「おととい」の「私」の行跡を追い、「私」の若き日の女性知人「彼女」との鮫洲の自動車教習所にまつわる思い出を引き寄せ、そこから岡本綺堂『半七捕物帳』の記述の筆記までを紙面に招き寄せる。再び当日の「私」の情景とそこから推論された女将さんとの邂逅の可能性の現在時からの反省をまじえ、滑らかに語を継ぎ、《あら、やっぱりそうだったの、》(80頁)と女将さんの言葉をあらためて流し込む。回想と推論、思い出に克明な情景描写、さらには別小説からの引用までを含んだこの7ページが現実の時間の再現における真らしさというものとは、まるで無関係の時間を持続させているのは言うまでもない。作品の読み手はここで、遅延されつづける女将さんと「私」との居酒屋でのほんの二、三(であった筈)の会話のやりとりを見届けるために、「待つこと」の無為の持続の内部で小説の時間を叙述とともに生きることになる。『いつか王子駅で』という作品の基本的な叙法は、それが作品の主題としてあるのみならず、この「待つこと」の姿勢のうちに読者に経験されることになるように思う。そしてしかし、この作品の結末部分は終始保たれてきた「私」の「待つこと」の姿勢への堅持から鮮やかに一転して、「待たれること」、「待たせること」の場へと「私」を不可避的に移動させるようにも見える。貸し部屋の大家の一人娘である「咲ちゃん」の陸上競技大会への応援の約束と、同じ日曜日の午前十時半と刻限を切られた女将さんとの王子駅での待ち合わせ、二人の女性からの二律背反的な約束の取り付けとそのあいだで不決断に揺れる「私」の姿が、この作品の最後にいたってはじめて、「私」を、「待つこと」ではなく「待たせること」において軽く失調させることになる。この転回はとても鮮やかだけれども、それがここまで読んできた作品の言葉の組織にあって、何に、どのように資することになるのかがちょっとよくわからない。「待つこと」がある未決の状態を宙吊りの姿勢で身を持していくことになるのだとすならば、「待たせること」は矛盾律に従って択一的な決断を強いられることを求めるのかもしれない。そこに男女の三角関係にもよく似た葛藤のような問題も静かに迫って来ていはしまいか。(漱石というよりも、ここではデュラスの『ロル・V・シュタイン』をちょっと思い出してもいいかもしれない)。そもそも、「待つ」とはどのようなことなんだろうか。他動詞的でない(目的語を持たない)「待つこと」など人には可能なんだろうか。それが出来ないならば、「待つこと」とは実はつねに「待たされること」として「待たせる」何かに全面的に覆われる受身的な体験であることになるのだろう(「見ること」や「聞くこと」と同じような意味で)。無責任に言いっ放してしまえば、作品のこの結びには、「待つこと」の非接触的で(「カステラ」はけっして持ち主に手渡されない)他者との軋轢とは無縁の吊るし地獄的な境地の裏面に、「待たせること」の社会的な葛藤が浮上しかかっているようにも感じる。よくわからない。