多和田葉子『ゴットハルト鉄道』

マユコは先端恐怖症や高所恐怖症というのがどんなものなのか想像ができないほど、自分は神経の太い人間だと信じ込んでいたが、よく考えてみるとふたつだけひどく恐いものがあった。ひとつはハチ、もうひとつはハシだった。蜂が顔のまわりを飛びまわると、重心が狂って倒れそうになり、刺されるかもしれないと思うのか肌がきゅっと縮まって、皮膚呼吸ができなくなってしまう。特に嫌なのが、首筋から背中にハチが入り込んでくるかもしれないという思いだった。自分の背中は見えないので、そこに虫がしがみついたり刺したりするという感じがたまらなく嫌だった。また、橋というものも恐かった。橋の上に立つと、胸の中の空洞が大きく広がっていって、意識が右へ左へと大きく揺れ始め、自分が自分の身体を踏み外して、落ちていってしまいそうになった。
隅田川の皺男」171頁

 短篇集『ゴットハルト鉄道』に収められた「隅田川の皺男」の主人公「マユコ」が作品冒頭で告白しているふたつの「ひどく恐いもの」とは、この書物に収められた三つの短篇いずれにおいても同様の感情的な価値を担っているだけではなく、また同時に、それらが恐怖や不安の情動と釣り合う程度で強い愛着や性的な快苦の供給源にもなっていることを確認することができるだろう。「隅田川の皺男」において、サディスティックな処罰者の相貌をもつ「女医」によって「鉛筆のように先のとがったもの」で無数の点状の傷を刻まれていく「マユコ」の背中の皮膚は、《まるで蜂の大群》が《飛び回り次々と肌を刺しているかのような印象を与え》る。「マユコ」は街娼の少年「ウメワカ」のもとに出向き、自己と相手とへの嗜虐的な気持ちを抱きながらその傷跡を彼の舌で丹念に舐めとらせることになる。「ハチ」にたいする恐怖は傷への魅了をともなって、皮膚や眼球といった身体の表面に穿たれる穴状の痕跡への執着として諸篇のモチーフに変奏されている。「隅田川の皺男」で、行きずりに出会った女の人差し指で《ぐるんと一回かきまわ》される「マユコ」の右目*1。「無精卵」の「少女」によって風呂場で唐突に手を差し入れられる「女」の性器の襞。あるいは同じ「少女」によって、やはり前触れなしに夜更けの寝床で噛みつかれることになる「女」の内腿に、くっきりと残る赤い歯形の傷跡。作品において登場人物たちによって繰り返される、耳の穴やへそへと差し込まれようとする指のしぐさ。表題作である「ゴットハルト鉄道」は山腹に深く穿たれた「ゴットハルト・トンネル」を取材する話者「わたし」の「トンネル」への幻想を描いて、事態が身体の表面のみならず事物の次元にぽっかりと開いた穴へと拡張されながらも、しかしそもそもそれが、「聖ゴットハルト」という想像的なイマージュのうちで擬人化された男の腹の内部への進入であったことが、作品冒頭でまず確認されることになる。そして、トンネルはこちらとあちらとを隔てながら彼我を連絡するものでもあるという意味で「ハシ」と同等の機能を果たすものである以上に、作品においてはそれが、人に《胸の中の空洞》を思い出させて、それによって《意識が右へ左へと大きく揺れ》動くような目眩にも似た感覚を生じさせることで、「ゴットハルト・トンネル」と「ハシ」との類似が際立つことになる。

そのトンネルは、どこに続いているのか。目玉の向かっている方向が嫌でも前方ということになるのだろう。すると、トンネルの入り口は、私の後頭部の方向にあることになる。振り返って見ようとしても、振り返る度にウシロはウシロへ逃げてしまう。いつもウシロにある決してもどれない背中にくっついたトンネルの入り口ということを考えると、私は目をつむったまま、自分自身のトンネルの中で、回転し始める。目を開けると、同じ位置にいる。また目を閉じる。トンネルが現われる。回転する。ウシロはウシロのままで、ウシロへ逃げ続ける。
「ゴットハルト鉄道」32頁

 身体の輪郭と表面に露わな皮膚の下ではそこに踏み迷うものの方向感覚は失調し目眩がもたらされ、言語(話し言葉)も奪い去られる。そこでは身体のイマージュからは有機的な統一性が失われて、食べ滓のように咀嚼された部分対象の断片が、視線も言語による分節化も許さない晦冥な空洞の内部を流れていく。(《トンネルが食道、わたしは食べ物。食道を通るものの快楽。》「ゴットハルト鉄道」17頁)。食べ物としての主体-対象の断片化のイメージが身体のうえに被さってくる。「無精卵」の「少女」の欠損した右足の小指や死後にパートナーの飼い猫に供されようとする「ゴットハルト鉄道」の「わたし」の「人さし指」、「隅田川の皺男」の「ウメワカ」によって舐められる「マユコ」の背中の傷跡。化膿した目を診察する「女医」は《マユコの目の中に指を入れて、クモの巣よりも細い繊維状のものを注意深く引き出し》、《取り出したものをくるくるっと器用に巻くと、小さな繭のようなものを作って、自分の口の中にぽいと入れて食べてしま》う。(「隅田川の皺男」206頁)。あるいは、「わたし」のパートナー「ライナー」の腹部には、《サラミソーセージの詰め合わせのように。》《濡れて赤黒く、ペニスが何本も詰まってい》ることが「わたし」によって夢見られることになる。(「ゴットハルト鉄道」36頁)。「ゴットハルト鉄道」では外部のものへと対象化されていたそれじたい「対象化された身体」のイメージは、自余の二篇ではあらためて「対象化された身体」を女という内在性のもとで生きるものとして強調点を移動させたうえで、更新されなおそうとしているように感じる。
 ともあれ、こうして皮膚は二つの性質をもったものとして連想のうえで把握されており、「ひどく恐いもの」や止みがたい性的な快苦の振動が時にその表面や裏面に集中して走り抜ける対応領域として女の身体を包み/破る。「ハチ」に刺されることや「少女」に噛みつかれることを予期して不安や恐怖に《きゅっと縮ま》ろうとうする皮膚は、その強張った姿形から、他者のまとう光沢性の金属質な肌としてさまざまな比喩形象を作品の風景に呼び出す。(「マネキン騎士」、ステンレス、アルミニウム、セルロイド、「ロウ人形」といった硬質な肌をもつ寄る辺ない他者たちが女の前を通り過ぎてゆく)。しかしまた、それらの光沢ある人を寄せつけようとしない肌は、他方で、そこに傷をつけることや皺、または肉体の襞、汚れて束によれた頭髪、目や耳、口の穴、臍や女性器、肛門といった身体の特異なさまざまの裂け目が開けることによって、「ハシ」や「トンネル」がその暗闇の下部に抱える目眩と断片化の貯水池/放流点ともなることができる。
 《ゴットは神、ハルトは硬いという意味です。》(「ゴットハルト鉄道」8頁)。山腹に硬い石を抱え込むこのゴットハルトの山は、しかし男の肌の金属的で光沢性の硬質さではなく、石の塊の持つ表面の凹凸によって、むしろ傷や炎症の痕跡の主題によりいっそう馴染もうとしているだろう。そして、山腹に埋めこまれた身体の断片のイメージは回転や目眩の感覚のもとで、同時に、主体から言葉を奪おうとする。

その中心点で、北から掘り進んでいったつるはしが南からのつるはしにぶつかった。(……)イタリア人の労働者たちのつるはし。十年間ずっと掘り続けた労働者もいた。途中で職を変えた労働者もいた。命を落とした人間たちも。多弁だったのは石だけで、人間たちは黙って掘った。
(同上38頁)

 《夢にまで見たゴットハルトのお腹に》入って暗闇の中に身を沈めたとき、人はそこで「ロウ人形」のように直立不動の姿勢のうちに硬化して、発話を停止することを余儀なくされる(同上27頁)。言葉がそこでどのように断片化され、咀嚼された一種の死物(食べ物)に似たものとなるのかは、次のような想像的な記述がイメージのヒントになるのかもしれない。

群れから遅れた子牛が線路の上に立っていたことがありました、とベルクさんが言った。(……)まるで、巨大な穀物の袋にでもぶつかったような感じで。動物の身体でも人間の身体でも、ずどんとね。当たっただけで、肌はどこも破れないしたたかな表面です。平気だったかもしれない、とつい期待してしまう。でも、実際は望みなしです。外へは血も肉もこぼれなくても、中身は壊れてしまっているんですね。繋ぐことも、繕うことも、塞ぐことも、貼り合わせることも、縫合せることもできないくらい、完全に壊れてしまっているんです。
(同上25頁)

 身体の中身が列車との衝突の結果として《完全に壊れてしま》うわけでは、必ずしもない、という点をあらためて押さえておくべきだろうか。話者「わたし」は事の当初から、咀嚼され嚥下される食べ物の断片のイマージュを生きるものとしてこのゴットハルト鉄道へとやってきて、その資格のもとにはじめて《ゴットハルトのお腹に》入ることが可能となるわけだから、事柄の順序としてはむしろ、ここでの言葉に倣えば、彼女はすでにあらかじめ《壊れてしまっている》ものとしてあるはずだ。そして、「繋ぐこと、繕うこと、塞ぐこと、貼りあわせること、縫合すること」が事物や身体への構えとしてあると同時にまた、それと同等の資格で、それらが文字や書き言葉における作家の生産的な姿勢を粗描するものとしても読み取ることができることを思い出しておいてもいいだろう。この山の内部で石の暗闇に囲繞されて「わたし」は、つまり、あたかも「石女」にでもなってしまったかのように概念を失うことになる。「無精卵」の「女」が努めて日々に綴りつづける文字の連なりは、ここからも流れ出そうとするのではないか。文字を書くことの即物的で消極的な条件はいろいろと数え上げることができるかもしれないけれど、ひとつには、その営みが同時に声を発することを禁じているということを挙げることができるかもしれない。書くことの条件には、話し言葉発話行為における非-懐妊的な生(概念における不妊状態といったもの)を生きることが不可避的に含まれているのかもしれない。「無精卵」という作品には、そのような生殖を伴わない、不毛な性の肌えの下の暗闇におけるぼんやりとした発光が、文字を書くことともに、記念されようとしているようにも見える。思えば、「無精卵」とは、いわば月ごとに女に巡ってくる小さな周期的な流産といったものではないのだろうか。その「無精卵」が、卵の黄色い黄身を思わせる帽子を被った一人の「少女」を、ある日突然、何かの嘘のような確かさで、この不毛で不可能な生へと到来させる。口をきかない「少女」を傍らに、「女」の綴る白紙の上の文字は次第に嵩を増していく。何がそこに書かれているのかは、誰にも知ることができない。でも、ひょっとしたらそれはこんな言葉だったかもしれない。「樹木」は樹木の指示対象を失って「電信塔」へと書き換えられる。「裏庭」もまたその固有の意味の連関が失われて「四角い土地」へと緩やかに解体される。「ゴットハルト」は聖人の身体の隠喩的な表現であることをやめ、事物と身体を指示する語であった身分を放棄して、語の身体、語と事物の混成体へと反り返っていこうとする。そして、「少女」がやってきた時と同様の唐突さで、ある日を境に、「女」は忽然と姿を消す。そこに書かれた言葉の意味などいっさい知らない「少女」が「女」のファイルの複写をもって、こことは違う何処かへと、「女」同様速やかに、静かに去っていく。

*1:何処かでとっくに指摘されていることだろうけれど、あらためてこの「隅田川の皺男」という作品や「無精卵」と川上未映子芥川賞受賞作『乳と卵』はとてもよく似ている。女の人差指で右目をかきまわされた「マユコ」は痛みでその場にしゃがみこむ。《涙があふれようとして白目の厚い壁に隔てられてせきとめられ、体内に逆流した。マユコはじっと我慢して待っていれば痛みもいつかは過ぎ去っていくだろうと思ったが、時間はなかなか流れなかった。》(「隅田川の皺男」196頁)。《(……)いつまであんなん続ける気いか、あたしは、と巻子は緑子の肘をつかんだ、瞬間に緑子はそれを激しく振り払って、その際に緑子の手が大きく巻子の顔にあたって指が巻子の目に入り、巻子はいたっと声を出して、しばらく涙が出て涙が出て涙が出て目が開かなくなるあれ、になり、巻子は手のひら、中指の先などで目を押さえては離して目を開けようとばちばちさせてもうまく開かず、真っ赤に充血してきた目からは汁のように涙が垂れて、頬にだらだら広がっていったのを、(……)》(川上未映子『乳と卵』100頁)。川上未映子のそれが、娘からの偶然の受難が母の眼球を決壊させ、直後に続く母子の間の激情と涙の奔流の場面のいわば「呼び水」になっているのと比べ、多和田葉子の「隅田川の皺男」においては、読まれるとおり、溢れ出す直前の涙が堰の手前で貯水池へと還流していく。あるいは、『乳と卵』のぎくしゃくとした母子関係は「無精卵」の「女」と「少女」との擬似的な母子関係にその雛型を見ることができるかもしれない。ペンとノートを使って筆談することで母との対話を回避する「緑子」の姿は、やはり「女」の言葉を時折オウム返しすだけで自発的な発話をほぼいっさい行わず、「女」の書く文字を筆写するだけの「少女」の姿をモデルに造形されていたかもしれない。さらに、緑子の日記に記される、これは露骨に「無精卵」にかんする考察なども考慮されて構わないかもしれない。