バラード『コカイン・ナイト』

 かっこよさげなので、雰囲気重視でいきなりニーチェとか引用してみる。

(……)根拠の原理がその具体的な形態のどこかで例外をゆるすように見える場合、人間はとつぜん象徴界の認識形式に迷いをおぼえ、途方もない戦慄的恐怖にとらえられるものだが、ショーペンハウアーは同じ箇所でこの戦慄的恐怖をわれわれに描き出してくれている。同じように、個体化の原理が破れると、人間の、否、自然の、最も内面の根底から、歓喜あふれる恍惚感がわきあがるものだが、上に述べた戦慄的恐怖にこの歓喜あふれる恍惚を加えるとき、われわれはディオニュソス的なものの本質に一瞥を投ずることになるのだ。ところでこのディオニュソス的なものは陶酔の類推によって、われわれにきわめて身近なものとなる。原始的な人間や民族のすべてが賛歌のなかで語っている麻酔的飲料の影響によって、あるいは全自然を歓喜でみたす力強い春の訪れに際して、あのディオニュソス的興奮は目覚める。
ニーチェ悲劇の誕生

 「麻酔的飲料」?……コカインの夜の陶酔。
 
 地中海沿岸に連なるスペインの高級リゾート地で起こった、被害者5人にのぼる放火殺人事件。トラヴェルライターである物語の話者「私」(チャールズ・プレンティス)は、その地のスポーツクラブのマネージャーでありコミュニティの中心人物の一人でもある弟・フランクの逮捕の報せを受け、集合居住区(プレブロ)エストレージャ・デ・マルへと駆けつける。炎上する邸宅にパーティで集まっていた名士たちの誰もが、口をそろえて被疑者の無実を疑わない旨の言質を「私」にあたえるが、ただ一人フランク本人のみが自身の有罪を頑なにうべない、しかし、事件の詳細そのものには奇妙な沈黙を守りつづける。「私」は真犯人を探すべく捜査に着手することを決意し、こうして、男の、エストレージャ・デ・マルでの滞在と謎に包まれたその居住者たちとの交流が始まる。
 訳者のあとがきや高橋源一郎の解説を読むと、96年発表のこの小説を、「9.11」を預言した先駆的な(同時多発テロ対テロ戦争を巡る想像力下におけるアクチュアルな)現代小説みたいな捉えかたをしていて軽くのけぞった。どういう理路をたどるとそういう読み取りに至るのかが本当にわからないので、できたらちょっと読み方のヒントを聞かせてもらいたいと思った(確かに、いろいろと「アクチュアル」であることは疑いえないけれども)。
 この作品の主人公「私」の役割とは、一篇において沈黙のうちにいっさい何事も語ることのない弟に代わって、弟の立場や彼の築いた人間関係の網の目のように錯雑する内部に再び入りこみ、辿りなおし、そこで起こった事件の再演を成功させ、そうして物語の読み手にできごとの全貌を(再)認知させることにあると言っていいだろう(叙述の経緯にそって次第に明かされることになる真相の諸連関が、それまで読者が知ることのなかった認識のまったく新たな開示としてあると同時に、それが物語の組織する劇的な結構においては既に起こってしまっている過去のできごとの再演としてあるという意味合いで、ここでの認知は同時に再認として読み手に受け止められることを求めている)。「ホリンガー邸の火災」という謎に包まれた事件がどのような経路を辿って、またどのような人物たちのどのような思惑の錯綜によって、そこに引き起こされるに至ったのかが、「私」の代行的で再現的な振る舞いによって、はじめて明るみにされることができる。演者が二重化されているように、舞台となる場所もまた二つの地にまたがる。一度目はエストレージャ・デ・マルで、二度目はいま一つのプレブロ、レジデンシア・コスタソルで。
 エストレージャ・デ・マルは劇のすでに上演され終えた舞台として、そこからの移行を物語が「私」に強いる。エストレージャ・デ・マルでの生活はすべてがあけすけで、そこにはルネサンスを思い起こさせるような賑やかな芸術の開花があり、全住民がスポーツの振興と文化的事業を自発的に謳歌する、一種の躁状態にも似た快活さを競っている。その一方で、そこには、「ホリンガー邸の火災」の悲惨をたんなる偶発的で例外的な事故とみなすことで片付けることができない、街のこの祭り的な躁状態と不可分の犯罪の数々が伏流してもいる。押し込みや車両窃盗、レイプ事件や放火騒ぎ、ドラッグ売買、素人売春、ポルノフィルムといったものが居住区の至るところに日常的に蔓延し、あまつさえ、住人はその犯罪を享受し、日々のルーチンの一環として自己の活動の日程にみずから組みこんでさえいることが、「私」にも徐々に理解されていく。犯罪と欲望の十全な流露によってコミュニティを活性化する、という陶酔の論理を生きるカリスマ的な君主(道化)として、ボビー・クロフォードというサテュロス的人物が「私」を次第に、逃れがたく、魅惑していく。「ホリンガー邸の火災」とフランクの沈黙の謎もまた、この「聖者としての異常者」の男に集束されていく。行軍する預言者ともいうべき相貌をもつこの旺盛な運動家が、第二のディオニュソス劇の舞台として進軍を開始するのがレジデンシア・コスタソルということになる。「私」はそこで、かつてのエストレージャ・デ・マルでのフランクがそうであったように、ボビーの右腕にして後ろ盾ともなるポストを受け入れ、あらたなスポーツクラブのマネージャーとしての勤めを果たすことになる。これから始まるレジデンシア・コスタソルでの彼らの運動の経過は、読み手に、エストレージャ・デ・マルでかつて起こったことの謎を再認知させることにもなるだろう。
 ゲーテッド・コミュニティというものの一個のまったき理念型を体現したかのように描写されるレジデンシア・コスタソルの横たわる姿は、欲望の散りぢりになった欠片たちが水泡に漂いながら「終着の浜辺」の波間の一隅に塊をなしているかのような印象をまず覚えさせる。そこでは、いっさいの労働(とそれに対をなす、強迫的な遊びの観念)から解放された人は監視カメラの奥の邸内でソファに横たわり、衛星放送が送ってくるテレビのプログラムを日がな一日眺めつづけるだけの、人類史上もっとも長い午後における(いわば)不眠の午睡状態を生きている。あるいは、脳死にも似た緩やかな自死過程にある。そこに、パンの角笛を吹き鳴らしながらボビー・クロフォードがやってくる。窃盗や器物破損といった悪戯めいたケチな犯罪がそこここで芽吹く。住人はコミュニティに異物が混入したことを次第に自覚していく。そして、自分たちのいる場所がコミュニティであったことを思い出す(「個体化の原理が破れる」)。閑散としていたスポーツクラブのテニスコートにラケットが叩くボールの音がこだまし、干上がっていたプールに再び水が張られていく。自警団が自発的に組織され、人けのなかったカフェには人があふれ、今や至るところで芸術談義が花を咲かせはじめている。サロンやさまざまなクラブが形成され、コミュニティがついに目に見えて浮上してくる。同時に、売春や薬物売買といった犯罪が公然と横行していく。芸術と犯罪が形づくる欲望の坩堝のなかで、今や人はその献身的な中心人物の名をあらためて思い出す、ボビー・クロフォードこそがその人だと。フロイトが『モーセ一神教』で描いたものと類似したコミュニティの神話が、エストレージャ・デ・マルやレジデンシア・コスタソルにも現出することになるだろう(ただし、「父殺し」ではなく、正確には「父(の子)殺し」を負う犯罪と罪責感による共同体として)。レジデンシア・コスタソルでの成果に満足をしたバッカス(コカインの神!)の熱烈な使徒であるボビーが、新たなミッションを胸に、次なる居留地へと十字軍を進める時がくる。……こうして、劇は一巡する。悲劇の果たす機能がそうであるように、「私」と読者は自分たちの世界で起こるできごとの謎と意味の再現を再認知することになるだろう。物語はここに結末を迎えようとするが、そこで「私」にどのような事態が待ち受けているかは語らないでおく。
 ドラマツルギーの全体が悲劇的認識の性格を担わされているように見えるこの小説にあって、素人らによるポルノ・フィルムの撮影といったものが犯罪的主題のひとつに数えられている。言うまでもなく、映画撮影といったものもまた演出者や演技者らによる再現的な芸術であり、悲劇の理念の今日的ヴァリエーションとして把握することができる。ニーチェは『悲劇の誕生』の記述で、本質的に音楽や踊りのものである陶酔的なディオニュソス的芸術(ミメーシス)にたいして、彫塑的で対話的な夢(表象)によるアポロ的芸術という相補的なミメーシス理解を提示していた。おそらくバラードという物語作家は、(これまで数少ないながらいくつか作品を読んできた印象でざっくり言えば)世間で認識されているとおり、「人類の未来」(!)というものにたいしてつねに預言者的に振る舞い、それが見事に成功してきた稀有な作家なのだろうとは思う。言い換えると、時代の病理に応じてそのエッジで踊り始めるディオニュソスをいち早く見出して、的確に、アポロ的に指呼しえるという才能に恵まれた作家なのだろうと思う。極言すれば、ディオニュソスを模倣的に描くアポロ的感性の作家と言えるのではないか。そしてさらに憶測すれば、そのことにわれながらちょっと苛立っている、と言えるのではないだろうか。……炎上して焼け残ったホリンガー邸の跡地で、「私」チャールズが見つけ出したヴィデオテープを、自宅のプレイヤーで再生する。そこには火事の犠牲者となった女性を主演女優にすえた私家版のポルノフィルムが映し出される。花嫁役に扮した女優がベッドの上で男優と交接している。ひととおりの事を終えてミメーシスが閉じられようとした時、突如二人の男らが部屋へと飛び込んできて、まさに本物の暴行が始まる。陰惨な光景が終えられ、撮影後のカメラに向かって放心した(もはやいかなる意味でも「女優」とは言えない)女が、しかし笑みをこぼしてみせて、今ここで起こったその事件のいっさいをエストレージャ・デ・マルの犯罪と陶酔の論理に従い、事後的に全肯定し回収する時、読者はいくぶんかは、そこで読んできた行文の何とも言えないいかがわしさや不快感のしこりを低減することができる。ポルノフィルムの撮影という作りごと、ミメーシス(模倣行為)を外部からフレームごと食い破ろうとする本物の暴行事件のディオニュソス的感触を、作家は文章に導こうとしているように思える。このくだりには、「いかがわしい小説」というものがあるのではなく、小説という再現芸術の抱える普遍的で本質的な「いかがわしさ」が流露しかかっているようにも感じる(そして、プラトンが詩人(模倣家)を告発しなければならなかった理由も何となく体感できる)。しかしにもかかわらず、バラードの文章はそれを物語の一挿話として再現的に舞台にかけることしかできていないとも思う。たとえばそこに、クロード・シモンの『三枚つづきの絵』のような作品における、エクリチュールの次元におけるポルノグラフィーを対置してみるとどうか、みたいなことを夢想してみる。むろんその時には、アポロ的芸術とディオニュソス的芸術という『悲劇の誕生』の仮構する図式じたいがまっさきに放棄されなければならないだろう、とも予想する。