すが秀実『詩的モダニティの舞台』

 詩というものを何ひとつまともに読んだことがないし、ましてや詩の歴史や「詩概念」(ポエジー)というものについては今まで考えを巡らせたことすらなかったけれど、この本は刺激的でとてもおもしろかった。すが秀実の著作は『探偵のクリティック』以降のものはなんとなく押さえているけど、未読だった本著が今回増補新版であらためて再刊されたということで手に取ってみた次第。
 まず、表題にある「詩的モダニティ」という語彙が何の謂いかは、巻頭にすえられた論考(「第一部 詩的モダニティの系譜」)でわかりやすく説かれている(正確には、「詩的モダニティ」なるもののわかりづらさ、問題の、それがいかに困難で厄介なものとしてあるかが、説かれている)。ぶっちゃけ、ここで書かれている内容に関してはまったく知らないことだらけなんで、ものすごく大雑把な理解のままとりあえずメモを控えておく。
 明治期の言文一致運動(すがタームで言うところのいわゆる「俗語革命」)と相即して、詩もまた近代化への努力が傾注されなければならないものとして意識される。現象的には「口語自由詩」の確立として具体的に目標化されるようなさまざまな試行錯誤がそこで行われることになる(本書の記述によれば、この段階では岩野泡鳴という作家の仕事が特権視されている)。ここで詩の(小説とはまた別の)近代化に固有の問題となるのは、狭義には「小説改良」の運動としてあった言文一致運動の側からは、なによりまず、詩(的なるもの=内容面におけるロマンティシズムや通俗性)からの脱却こそが目指されていたという点にある。「芸術と実行」、「詩と散文」という目標設定のパースペクティブにおいて、まず詩は、明確な脱却の対象として以上の二項対立の前者にすえられている。詩はこうして、散文と自分自身において二重の障碍として意識されることになる。そこに、詩の両価性(アンビヴァレンス)というものが関与してくる。自明のところだろうけど、小説がいかに(文語)詩の水準から抜け出そうとしても、そこから詩情や情動そのものまでをも抜いてしまうことはできない。言文一致の理念においてはむしろ、詩を否定しつつ詩(情)を温存するという止揚こそが課されている。俗語革命の流れと不離の関係にある口語自由詩の設定課題もまた、そのように担保される。詩は詩の領域で、小説とは別途その止揚によるモダニティの軌跡が跡づけられねばならないことが再確認される(章の副題に掲げられているように、ここで「萩原朔太郎の位置」が詩的モダニティの固有の問題となる)。萩原朔太郎の詩作(とともに、それが形づくる諸連関)が具体的に可視化する問題は、大衆社会という新たな社会状況における芸術と詩的モダニティの確立にあるとされる。「芸術と実行」という古くて新しい課題はここで、「犯人と探偵」という相貌(双貌)のもとに更新され、展開されなおそうとする。すなわち、新しい詩は芸術(文語詩)を殺さなければならないと同時に、そのしぐさと相即して、別の詩的体験を芸術(口語詩)として模索し、探りあてねばならないことによって、「犯人と探偵」の役割を同時に実現するという不可能(かつ不可避)なプロブレマティークに進み入ることになる。あるいは、朔太郎や保田與重郎の仕事に露わな「故郷喪失」と「望郷」という二律背反的な主題が切実な課題となる理由も、それが「犯人と探偵」のモティーフの変奏であり、大衆社会の到来という都市生活者(「遊民」)の体験を背景にしていることから了解される。この不可能かつ必然的な、自己言及の捩れのもとにある詩史のあらたな現実的経験こそが「詩的モダニティの舞台」にほかならないと、すが秀実は語る。そしてそれは、端的には、「文」が「言」に合致する(合致しうるかのような)仮象のフィギュールの洗練過程としてもある。「文」とはもちろん、文語定型詩のもとに象徴的に包摂しうる伝統や共同体的な故郷のごときものとしてあり、「言」とは、今や「文」の場所から遊離して漂いはじめた大衆や都市空間における新たな口語自由詩のものとして把握しうる。詩史の基本的な了解としては、言文一致や詩的モダニティの経験を巡る不可能はこの(「文」を従属させ抑圧する)「言」の場所に見出されている。その不可能にたいする積極的な反動やなしくずし的な退廃が、たとえば安易に芸術の名のもとに全体性を恢復しようとする疎外論的な発想を人に強い、あるいは、隷属でしかないものを主体性の顕揚として錯覚させたりもする。本著が仮構する「擬似詩史論」の前提がこうして設定される。ここから語られようとするのが、「言」のもとに従属される(それがあたかもア・プリオリで内在的なものでもあるかのように自明視されている)「文」による、「歴史」的でア・ポステリオリな抵抗の諸瞬間の、散発的な閃光の記録としてあるような記述のいくつかである。
 続く「第二部 〔ポ〕エティックの舞台」が展開する14人の詩人を取り扱った個々の作品分析は、以上の状況認識から、現代詩の「文」を「書く」という営みにおいて多様な様態で拡がりだすさまざまなダブル・バインドや不可能を詩人たちがいかに生き、または暗礁に乗り上げつつ、その不可避な困難を、しかし、いかに回避せずに持続させそれを堪えていったのかが、具体的な詩行に寄り添いながら丹念に叙述されていくことになる。いわゆる「68年革命論」を前面化して以降のすが秀実が徐々に離れていったかに見えるテキスト分析の見事な(ちょっと感動的な)成果がここには結実されてある(個人的には、山本陽子という、この本ではじめて名前を聞いた夭折の詩人の言葉に震撼した。この作家を扱った「不眠者の間隙」という文章のすが秀実もまた、何か、いわく言いがたく堪えかねているという印象も感じた。とにかくこの山本陽子論で寄り添いあう二人の文章は凄い)。仮に、この本の著者やここで取り上げられている詩人たちすらもが忘却のあわいに存在しなかったことにされるとしても、文学から詩情や感情そのものを払底することはできないという本論の前提に立ち戻れば、なおこの批評は、詩や小説を読もうとする人たちに向けて何度でも省みられることを求めるだろうと思う。