チェスタトン『木曜日だった男』

「君の変装は良いね」サイムはマコンを一杯飲み干して、言った。「ゴーゴリの変装より、ずっと良い。初端(はな)から、あいつは少し毛むくじゃらすぎると思ってたんだ」
「芸術観の相違さ」教授は物思わしげにこたえた。「ゴーゴリは理想主義者だった。無政府主義者というものの抽象的な、あるいはプラトン的な理想をつくり上げた。でも、私は現実派だ。肖像画家だ。いや、肖像画家と言うだけじゃ不十分だな。私は肖像画なんだ」
152頁

 チェスタトンの『木曜日だった男』という一種の探偵小説では、仮面をかぶり身元を隠した複数の人物たちによる錯雑した諸関係のお祭り騒ぎのような様相が呈されている。陰謀を企む7人の無政府主義者たちが演じるこのスパイ劇におけるミメーシス(変装)の成功と失敗の帰趨は、ヨーロッパを静かに侵していく無政府主義の混沌的な勢力とその流れを法と秩序の大義の下に阻止しようとする警察組織との対決の行方に、じかに直結していく。『ドン・キホーテ』のような作品におけるミメーシスが「憂い顔の騎士」一人の奇矯な扮装と騎士道的振る舞いにおいて表象の戯れを求心的に遊ばせていた場所で、チェスタトンの作品のここでは、ミメーシスの暴露と隠蔽、露顕と変装とからなる複数の者たちによる離散的で競技的な演劇が命がけで競われることになる。主人公である「木曜日」は捜査潜入した無政府主義者の集合にあって、その刑事という真実の身元を見破られてはならない。また同時に、状況は刻々と、会議のメンバーの装われた仮の姿を暴き、次々と真相を明るみにしていこうとすることで、これらのミメーシスに、漸進的な加点と失点が賦活するゲームの性格を印象づけていく。たんに偽者(刑事)が本物(無政府主義者)にうまくなりすますことだけが目指されているのではない。偽者は他者によって本物ではないことを暴かれてはならないと同時に、他者が実際のところは一体何者なのか、彼らのなかの誰が本当の敵で誰が自分の味方なのか、本物のなかに紛れ込んでいるかもしれない偽者は誰なのか、つまり、他者のミメーシスを暴くこともが、あわせて試練にかけられなければならない。
 無政府主義者たちの黒幕である七曜の首領「日曜日」の実践する偽装の論理は、ポーの「盗まれた手紙」以来名高い、いわゆる「木は森に隠せ」の論理と同じ構えをとっている。彼が主催する七曜の定例会は、大勢の人の行き交う広場に面したもっとも目立つバルコニーで人目もはばからずに、それも昼日中から大それた陰謀を練ろうとするような、まったく明け透けで鷹揚な姿勢をとる。物語の主人公である「木曜日」、新任捜査官ガブリエル・サイムがその秘密を解明している。

「聞いてくれ」サイムは異様に力をこめて言った。「この全世界の秘密を教えてやろうか? それはね、僕らは世界の裏側しか知らないっていうことなんだ。我々はすべての物を後ろから見る。だから兇悪に見える。あれは樹じゃなくて、樹の裏側なんだ。あれは雲じゃなくて、雲の裏側だ。一切のものが屈んで顔を隠しているのがわからないかい? もし前にまわることができれば――」
293頁

 このサイムの言明には、直接的には、ミメーシスの概念をも包む世界にたいするプラトンの転倒した洞窟のイデアによる理解と受容への、折り返された新規の告発が含まれているだろう。つまり、プラトンが努めてそう教示しなければならなかったようには人はもはや無知や無理解の暗闇のなかにはおらず、自分たちが前にし、目にしているものが、背後から光源に照らし出されて洞穴の薄暗い壁に反映する実在の「樹」や「雲」の、ぼんやりとした影に過ぎないものであることを、すでにあらかじめ、充分に飲み込んでしまっている。「もし前にまわることができれば――」、このサイムの慨嘆は、しかしなにも、ここであらためて、その種の現代的なニヒリスムの諦観を晴れやかに棄却して、プラトンの教えの説かなかったところ、つまり、イデアの太陽とやらを自身の盲目と引き換えにする覚悟で直視せんとする、というような不可能へのロマンティックな盲進をうながそうとするものではないだろう。ここでは、ミメーシスのまた別の、あらたな次元の課題が課されているように思う。
 たとえば、本物の無政府主義者が警察や世間の目からみずからを隠そうとするならば、以上の現状認識から、いかにも「兇悪」なものが潜んでいそうな地下室や「世界の裏側」に身を置こうとすることは、もっとも拙い愚策のひとつに数えられるべきだろう。「すべての物を後ろから見る」ことこそは、あらゆる(作品の執筆された「1908年当時のヨーロッパ」という条件を与件にする)現代人の認知が落ちこんでいる抜きがたい習い性だとするチェスタトンの(正統派キリスト教徒的な?)苦々しい了解からすれば、すべての人の目をもっとも効果的に欺くには、「裏側」とは正反対の場所、いちばん目立って人目を引く表側、日の光が隠れなく降りそそぐようなもっとも明るい場所こそがその企みにふさわしい。もっとも明け透けに演じられるミメーシスを前にして、人の視線の焦点はその表面、表象ではなく、その「裏側」、偽りの奥行きの、目には映らない虚焦点で真実(の外観、見かけ)を結像する。無政府主義者の今日的な偽装のミメーシスはだから、『「本物を装っている偽者」を装う本物』という重ね書きがほどこされた多層化したレイヤー状組織を形づくるだろう。「日曜日」の標準化されたミメーシスの定式がまさにそれであるところのもの。ガブリエル・サイムのミメーシスはこの定式からさらにもう一歩後退する。すなわち、『「本物を装っている偽者を装う本物」を演じる偽の無政府主義者』。このポジションじたいは、無限に後退しうるレイヤーの層の戯れに従うだけでいともたやすく操作的に実現されるだろう。「日曜日」の定式にくわえてあらたに特筆すべきものはどこにもない。そしておそらく、ある人物が「偽者」か「本物」かを巡るここでの明示的な主題も、それじたいとしては安逸な知的遊戯や息抜きといったものの域をこえることはないだろう。
 そもそも、物語の語りの焦点人物として読者の眼前に差しだされるこの若き主人公は、私たちの前に、その他の登場人物たちとは例外的に、その活躍の前身たる身分を(スパイとはもっともかけ離れた開明的な素振りで)通例の「読み」の原則にしたがい、明らかにしてみせている。私たち小説の読み手は、登場する者だれも彼もが疑わしいこの作品風土にあって、彼だけが、彼こそは、唯一信頼に足るアンチ・アナーキスト(偽者の無政府主義者)である事実を信憑としてほとんど疑わない。これは作品の瑕疵か限界であるだろうか*1。ミメーシスの現実が「日曜日」のそれにおけるものであるように定式化されたものであったならば、レイヤーの交代=後退を任意の地点で停止したとき、「本物」と「偽者」を区別して同定する真相の場所が最後的に明るみにでる。そのとき、実像が壁にうえに揺曳する影たちの戯れにあるのか、それとも背後で輝く日輪の場所にあるのかは、ほとんど趣味の問題にすぎないとも言えるだろう。「木曜日だった男」の独自の告発は、ここにおいてその叫びを叫ぶことになる。

「僕には何もかもわかったぞ」と彼は叫んだ。「この世に存在するすべてが、わかったぞ。地上にある物はなぜ、お互い同士戦うのか? 世界の中にあるちっぽけな物が、なぜ世界そのものと戦うのか? 一匹の蝿が、なぜ全宇宙と戦わねばならないのか? 一茎の蒲公英が、なぜ全宇宙と戦わねばならないのか? それは、僕がたった一人で、恐るべき七曜評議会にのり込まねばならなかったのと同じ理由だ。法に従うそれぞれのものが、無政府主義者の栄光と孤独を得るためなんだ。秩序のために戦うめいめいの人間が、爆弾魔と同じ勇敢で善い人間になるためなんだ。サタンのついた本当の嘘をこの冒涜者の顔に投げ返してやるため、涙と苦悶と引きかえに、この男に『嘘つきめ!』という権利を得るためなんだ。『僕らだって苦しんだ』とこの告発者に言う権利を買い取るためなら、どんな苦悶だって大きすぎることはない。(……)」
315頁

 ガブリエル・サイムがいまここで叫ぶ「苦悶」とは、ここまで彼らがミメーシスの掟に従って払ってきたすべての努力の過程以外のものではない。この「苦悶」によってのみあがなわれる、「秩序」を打ち立てる戦いのための「勇気」が、敵であったはずの「無政府主義者」とも共に分かちあわれようとしている。それは、ミメーシスがミメーシスであるかぎりで、混沌や退嬰やニヒリスムを退けようとする決意の発露であるかぎりで、あらゆる真似事やミメーシスを、真理との無縁も恐れることなく救援し肯定しようとする清新な叫びだったのではないだろうか。

*1:彼の内面描写を通じて物語を読むということが要請されていることで、身分の信憑のうえではけっしてぐらつかない「木曜日」の(ここでは刑事という)身元の確かさは、たとえば「転向」のような身分の真の不確かさを巡る、これ以降の時代に浮かび上がることになる課題には応答しえないもののように思われる。