セルバンテス『ドン・キホーテ』

 ドン・キホーテのユニークな狂気の本性を形作っているミメーシスの身振りはテキストのうえで二重化(重層化)されているように思う。「騎士道物語」という当時ヨーロッパで流行していた文芸ジャンルを読み耽り、それが昂じて、分別盛りもとうにすぎた賢明なラ・マンチャの田舎郷士がある日俄かに、静かに狂気を発症する。彼の掲げる誓願は、書物のなかで語られる遍歴騎士のもろもろの理念(ライバルの騎士や悪逆な巨人、魔法使いらとの勇敢な決闘や、みずからが仕える主君への揺るぎない忠誠、困窮した貴婦人や弱者たちへの無償の救援、懸想する思い姫への愛の奉仕など)を、この世界でその身をもって体現することだ。もちろん、この「騎士道物語」というフィクションに描かれている絵空事めいたできごとの数々は現実の世俗的世界にはその対象物をもちえない、シニフィエを欠いたシニフィアンとしてふわふわ虚空に浮かんでいるような態のものだ。このような騎士道物語にたいするごく一般的で理性的な当時の人々の対応としてセルバンテスが描いてみせるいくつかの場面(前篇第6章での司祭と床屋の親方の焚書裁判のやりとりとか、同じく前篇47章の聖堂参事会員と司祭との虚構談義とか)は、プラトン『国家』でのミメーシス論が集中的に論じられる第10巻での議論よりは、その前段として模倣論が先触れされる第2巻17章以下の中間的考察との類似が顕著であるように思う。セルバンテスの論述においては、詩人と詩作の全面追放が結論される『国家』のミメーシス論の最終的判断よりは、いわば「良い詩作(フィクション)」と「悪い詩作(フィクション)」とが比較考量されたうえで「悪い詩作」だけを選別して排除しようとする改良的な姿勢に馴染もうとしていることが明らかだ。そして、この騎士道物語が同時代における「悪いフィクション」の最たるものとして痛烈な揶揄と唾棄との対象とされる。『ドン・キホーテ』前篇におけるドン・キホーテの身振りにはだから、「ミメーシス(騎士道物語)を模倣するミメーシス(ドン・キホーテ的振る舞い)」という具合に、ミメーシスが二重化されて現れていて、前者のミメーシスの指示対象をもたない空虚が後者の演技的ミメーシスの底無しの空転を無際限に誘いこんでいる。(もちろん、ドン・キホーテの示すこれらの惨めで滑稽で不可能なミメーシス的素振りの数々が、その失敗につぐ失敗の果てに、逆説的にも騎士道的理念そのものの実現における気高さや高潔さを読み手に認知させることには成功しているだろう)。
 後篇におけるミメーシスの二重化は事態をさらにややこしいものへと更新させる。前篇(1605年刊行)で騎士道物語のミメーシスと化したドン・キホーテは、後篇(1615年刊行)のここでは新たに、自分自身の行状の逐一がすでに書かれた書物(前篇)のミメーシスとして活動を再開させることになる。遍歴の旅が開始されるや、ドン・キホーテはじしんが前作『ドン・キホーテ前篇』という書物の主人公として人々にすでに広く認知されていることを知る。こうして、書物が書物の上に重なり、厚みのない透明な空間に融けあう。フーコーが『言葉と物』で指摘するように、ドン・キホーテという生ける実在からなる一冊の書物の世界がそこに開ける/閉じる。騎士道物語という書物のことばが課していた(騎士道の)義務の履行からなる冒険の数々は徐々に退いていって、ドン・キホーテはそのなすところの行方をしかと知る必要もないまま、すでに「遍歴の騎士ドン・キホーテ」という実存の書物のことばを漏らすところなく知悉している公爵夫妻やブルジョワ連といった人々のお膳立てした歓待にうまくチューニングするだけで、書物のことばが事物の世界へと、自己じしんの素肌の上で合致していく(ミメーシスがミメーシスへと折り重なる)。フーコーの用語を借りれば、ドン・キホーテは今や「純粋表象」と化す。類似と相違の標識に従ってランガージュと物の世界の照合を司っていたシーニュは、ドン・キホーテという生ける書物、フィギュールの上で円環を閉じ、その輪郭線の形成する循環的な境界線にそって、書物は書物のことばに、表象はまた別の表象に、孤独な玉座のもとで相互的に食いこみあう。そしてそこに、ミメーシスの新たな現実が侵入してくる。
 『ドン・キホーテ』の説話的な語り手のポジションもまた、当初から重層化が施されている。作者セルバンテスの語りの位置は、シデ・ハメーテ・ベネンヘリという名のイスラム教徒、ドン・キホーテ物語のオリジナル(伝記)作者の影に、その原本テキストの編纂者、伝聞記録者として仮構されている(そこには、原語とスペイン語との媒介者としての、また別の翻訳者の存在までさしはさまれている)。この多重的な語りの構えの中に、現実のセルバンテス作の小説『ドン・キホーテ』の、二次創作者(偽作作者アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダ)の改変偽作(1614年刊行)が重なり合う。そしてセルバンテスは自作の記述に、この「悪いフィクション」(偽作)をさらに取り込み返しながら物語を綴りさえするだろう。(セルバンテス本人は著作権をすでに書店に売り払ってしまっている)。このような複雑な言語と指示物との綾なす襞がどんな射程を孕んでいるのかは私の能力ではちょっと測深しがたいけれど、ともあれここで、プラトンの予期しえなかったミメーシスの新たな(近代的な)体験が懐胎されていることをそれと指差すことくらいはできるだろうと思う。