アンドレ・ブルトン『ナジャ』

ナジャ (岩波文庫)

ナジャ (岩波文庫)

 ナジャという女の謎の前で躓く男・ブルトンのここでの語りは、文学作品とその解釈や批評の不能性という神話的な言説をなぞり返しているようにも思う。現実に起こるできごととの不思議な符合をしめす預言や神託めいたナジャの口走る言葉たち、不可解な判じ絵のようなデッサンの数々が、それらにたいする解釈や無条件の受託をもとめる命令文のようにして未来から男の目の前に次々と到来する。文字どおり「目の前」。

私たちは北駅に近いカフェのテラスで休む。もっとじっくり彼女を見る。この目のなかにひらめくこんなにも異常なものはいったい何なのか? この目のなかにぼんやりとうつしだされる苦悩のようなものは、同時にきらきらとうつしだされる倨傲のようなものは何なのか?

 二人の出会いの初めから目は特別な器官としてブルトンに注視をうながしており、このシグナルは謎を投げかけるシーニュとして一篇に溢れ出している(「目」それじたいとしては、ナジャの描くデッサンの幾つかやブルトンの挿入する写真の、たとえば「羊歯の目」のモチーフ、逸話として導きいれられる「人形の目」のくだりなんかが想い起こされる)。目はブルトンにとっておそらく女(と狂気)の謎そのものでもあるような特権的な器官であるけれど、この目はそれとして別の対象、たとえばガラスや窓のような透明で透過的で(半)液体的なものへと視線を誘導してその謎を別の領域へと流し込みもするものだろう。眼球とはガラスや水晶をその内に抱える液状の構成物としてあり、さらにはそこから、泉水や海面といった、やはりこのテキストのあちこちに顕在している水の主題へと連想のよこ糸を伸ばしていくもののようにも見える。ブルトンが作品の冒頭付近に添えている批評と文芸創作にかんする自註的な感懐にはそのあたりの事情が暗示されている。

私はといえば、これからもガラスの家に住みつづけるだろう。そこではいつも誰が訪ねてきたか見えるし、天井や壁に吊られたものすべてが魔法のように宙にとどまっていて、夜になると私はガラスのベッドにガラスのシーツを敷いてやすみ、いずれそのうちに、私である誰かがダイヤモンドに刻まれてあらわれるのを見るだろう。

 引用した文を含む意味的に連関したこの前段(十三頁から)のくだりが、実は、ある任意の作品にたいするブルトンの批評的な応接態度を表明していたものであって、それがいつのまにか、以上に読まれるような自作にむけられた創作の秘法の打ち明け話にすり替わってしまっている事情に、この『ナジャ』というテキスト全体の特徴を示唆する独特の屈託が見られるような気もするけど、それはさしあたり措いておく*1。確認しておきたいのは、『ナジャ』のブルトンにおいては、謎がそこに孕まされるべき作品といったものは、それがいつも隅なく光に照らし出されることのできる透明なガラスでできた家のようにあらねばならないという点だろう。むろんここでいわれている透明性とは、自然主義心理主義的なリアリズムにおけるような記述の透過性なんかを想定しているのではなくて、開け放たれた扉や窓の裡に作家や人物の謎が屈折しながらも充分な光を受けることを可能にするような光源の澄明さのごときものをしめしているのだろう(「幽霊」は半透明で光を歪めながらあらわれて、それじたいを光源に「ダイヤモンド」のように輝き人目を惹きつづけるだろう)。
 まず目としてあらわれる謎(「女」といってもいいし、「作品」といい変えられてもいいもの)はその内容物の性質によってガラス製品や水のもとへ、やすやすと変成する。そして女は男の投光器*2のような視線を「太陽」や「火」、「光」の属性*3へと送り返そうとする。

「あの手、セーヌにうかぶあの手、どうして水面で燃えているあの手なの? ほんとに火と水とはおなじものだわ。でも、あの手はどんな意味があるのかしら? どう解釈する? さあ、あの手を見たいだけ見せて。どうしてあなたはここをはなれたがるの? 何が心配なの? あたしの具合がとてもわるいと思ってるのね? あたし、病気じゃないわ。それより、あなたにとってどういう意味なの、水の上の火、水の上の火の手って? (ふざけながら、)財産のことじゃないわ。火と水、これはおなじもの、でも火と黄金はぜんぜんちがうもの。」

(……)でも、なんでもないわ、あなたは別の名前をもつようになるから。どんな名前かいってほしいでしょ、とても大切なこと。なにか火の名前のようでなくっちゃ。だってあなたのことになると、いつも火が思いうかぶんだもの。(……)

 女は男に自分を読んでみせろとうながしているみたいだ。謎の上に身をかがめ重なりあえ、と。ブルトンはこの謎の使嗾する声に応答し、できうるかぎり女の要望をのみつづけながらも、ついにしかし、致命的に彼女を失い、これに躓く。女はある晩の「暗闇」のなかで狂気を発症し、以後その早すぎる晩年にいたるまで、治療院の壁の内側に囲い込まれ、彼女の愛したパリの路上に再びさまよいでることは永遠にかなわなかった(野獣の爪がみずみずしかった「葡萄」の胸をしめつけて押し潰す。……あるいは、光を失った「ガラスの家」は『炭団のいっぱいつまった暗い穴』のように沈黙のうちに音を失う)。
 おそらく当初から、「水の上の火」などそもそも不可能な表象だったことは、ブルトンにも充分わかっていることだったのではないだろうか。日没の太陽を描こうとするマルセイユ埠頭の画家の闘いと失敗に寄せられるブルトンの諦念(P.175)。画布の上には結局、日の沈みきった暗い水面の美をしか見出せない。あらかじめ折り込まれた、必敗の批評?
……いや、たぶんそういってしまって投げ捨ててしまったんじゃ見落とされ取りこぼされてしまう、文の別の次元、あらたな書法の体験のようなものが、ここにはたしかに懐胎していたんじゃなかっただろうか。女という謎を読み続け、読み解き続け、しかし書き損ない、照らしそこないながら、断続的に、根気強く書き継がれていったこの『ナジャ』というテキストの総体がしめす、でこぼこで「痙攣的」、「ぎくしゃくとした」縫い跡だらけの、ジグザグなエクリチュールの航跡こそが、今こそブルトンその人の水をたたえたガラスの目に、その謎にむけての他者からの応答による幽霊的な炎を導火していた事実はもはや見逃しようがないのではないか。「水の上の火」とはこうして、それを希求したナジャの目とは別の場所で――別の場所とは、さしあたり当面、この『ナジャ』というテキストを読む不定の誰かの体験としか指差しようのない場所で――、不意に飛び火するものだったのではないか。作品の解釈や象徴の究明の不可能などといった神学めいた議論とはまったく関係のない場所で、「水の上の火」は思いもよらぬ方角からめらめらと燃え上がり、人の知らぬ間に無救済の火の手を上げる。『ナジャ』とはそのような体験のあたらしさをブルトンによって自覚的に記念された特異なテキストだったんじゃないだろうか。
……そうしてたとえば、『ナジャ』の、自作を読みながら書く(書き足す、書き直す)という書法からはビュトールの『時間割』がいくばくかの借りを負っているのかもしれないし、とりわけデュラスのあの発狂した女たち、S.タラをさまよい男との狂気の同伴を静かに求めつづける『愛』や『ロル・V・シュタイン』の女たちが、ナジャからブルトンへと託された委任状を新規に彼から引き受けるため、この世界へとあらたにやってくるのではなかっただろうか。

 

*1:作品冒頭の『私は誰か?』という実存的な問いを巡る、ブルトンの、それは「幽霊」である(=私が誰に『つきまとっている』のか?)というこたえの、文学的な変奏がここにはしめされているのだろう。問いかけの能動性、自律性にたいして、こたえの受動性、他者性をもってする、という一種の屈曲がある。

*2:百四十二頁のデッサン<彼女と私との象徴的な肖像>

*3:語彙feu