ガストン・ルルー『黄色い部屋の謎』

黄色い部屋の謎 (創元推理文庫)

黄色い部屋の謎 (創元推理文庫)

 1907年に新聞だか雑誌だかに連載され*1、作中でその15年前、1892年から翌年にかけてのできごとが回顧的に語られることになるこの作品は、ドレフュス事件がフランスの国論を二分して騒がせていた時間と同期している(ドレフュスの逮捕が94年で、99年に特赦、1906年に無罪判決を受けて晴れて名誉が回復)。このあたり、ちょっと作品に影響を与えてるんじゃないかなあ。あとがきの年譜によればルルーは91年から新聞に記事を寄せていて特派員のような仕事もこなしていたようだし、なにより、物語最終盤のダルザック氏冤罪事件の裁判、その場への青年探偵ルールタビーユによる法廷内介入だとか、審理過程への世論の関心を強調する作者の話運びなんかは明らかにドレフュス事件にたいする参照を示唆しているように感じる。よくわかんないけど(へこー)。
 それとこれとは関係なく、ドレフュス事件というより実は、スタンダール赤と黒』をちょっと彷彿させるところがあったりした。物語のクライマックスはどっちも、衆目を大いに集める裁判の場に舞台設定されてる(ジュリアン・ソレルは被告人、ジョゼフ・ルールタビーユは弁護人)。あるいは、『黄色い部屋の謎』の舞台となるスタンガースン博士の住まう城館、その二階にある殺害未遂事件の被害者マチルド・スタンガースン嬢*2の部屋の窓にルールタビーユが梯子をかける場面は、ジュリアン・ソレルがレナール夫人の屋敷におもむき彼女の部屋の鎧戸のかかった窓に、やはり梯子をかけて室内にもぐりこむ場面を思い出させる(ソレルが想い人との一夜の逢瀬をたのしむのと対照的に、ルールタビーユはそこに凶悪な犯罪者の姿を見出すわけだけど)。二つの場面が似ているっていうそれだけの話だけど、夜中に女のいる部屋に梯子をつかって忍び込むっていうシチュエーションはそんなにありきたりのモチーフでもないような気がするんで指摘してみた次第。
 密室という不可能状況における犯行の現出とそのからくりの謎解きを推理のモチーフに据えた古典的傑作として名高いこの作品の推論のプロセスは、ぶっちゃけて要約すれば、「不可能なもの(密室犯罪の現実性)がいかにして不可能であるか(密室犯罪それじたいの不可能)」を証明するメタかつトートロジックな確認作業=漸進的過程ってことになるんだろうか。密室における不可能犯罪ってのはブラックボックスとか霧箱のなかの不確定な要素の振る舞いとかに似ていないだろうか? だとすればルールタビーユRouletabilleはその場合、「サイを振れ」ってくらいの意味に意訳されなきゃならないだろう。古典物理学と警察的知にたいする量子力学的、遊民的知。……これまた、よくわかんない(へこ、へこー)。
 ただちょっとおもしろいと思うのは、『黄色い部屋の謎』という密室トリックを扱った作品で注目すべき役割を果たすのが、さっき触れたようにここでも「窓」の存在ってことだろうか。窓は存在するってより、窓が存在(登場人物たち)を空間に出入りさせているって感じか。堅牢で、まるで動かしがたい金庫のようにロックアップされた密室空間に浸透膜みたいな無数の小さな穴をうがつ窓が、ルールタビーユや犯人、登場人物たちの行く手に開け始めているって印象がある。じっさい、文字通り「窓」を使って建物の内と外の敷居を踏み越える場面が、少なくとも都合4回はこの作品に数えることができる。

 窓。……『モデラート・カンタービレ』の窓は投石によって破られる。あるいは女の断末魔の悲鳴が糸を引くように風に乗ってそこから流れ込む。ロル・V・シュタインはホテルの外の暗闇の中で階上の部屋で行われる男と女の情事を窓の下からイメージする。……ビュトールの電車の車窓は夜の闇を背景に客室の男たちや女たちの姿としぐさをぼんやりと映しだす。……ロブ=グリエの窓、窓ガラスは窓というより鏡に似ている。覗く人の覗く遠い記憶のイメージが投影される鏡のような窓ガラス、女の首すじと男の手、風の中に止まり木を見つけた大きな鳥の彫塑のような姿。ただし鏡はいつでもひび割れている。『反復』の決まりごと。……カフカの窓からは馬が田舎医者と患者の様子を覗いてる。夜のバルコニーで勉強する学生。……狼男の窓はゆっくり開いて、木の上の狼たちが彼の夢に恐怖の悲鳴を上げさせる。……クロード・シモンの窓は光と影とを区切って少年のノートの白紙の上に鋭い対角線を形作る。……高野文子の夜景を背後に映す窓ガラスは「夜になると明るい」部屋で光のレイヤーを重ねる。等々。

 窓はこんな具合に、幾つかのイメージをも交流させる。『黄色い部屋の謎』とは関係なくなってしまった。へこ、へこへこー。

*1:「イリュストラシオン」誌とのこと。

*2:そういえばジュリアン・ソレルの二人目の恋人ラ・モール侯爵嬢の名前も「マチルド」だったっけ。