パノフスキー『イコノロジー研究』

 パノフスキーの『イコノロジー研究』をざっと読んで、あわせてこの前ひととおり読み終えたディディ=ユベルマンの『イメージの前で』での、パノフスキーの仕事を集中的に論じてる批判的な箇所をもう一度読み直してみたり。今週はそんな感じで過ぎてった。一週間振り返ってみてほかに特に印象に残ってるような出来事の記憶なんかもなく、しかもこうしてかろうじて書くことのできる読んだ本のその内容にかんしても格別意見が見当たらないもんだから、まるで濃い霧に沈んだ景色を眺めているかのようなひじょうに頼りない心もちがする。お餅食いてえ。
 「イコノロジー」って聞くと、印象だけだと通俗的な夢判断と同じ具合でなんか適当な与太飛ばしてるだけなんじゃないの?みたいな悪い先入観がなんとなくあったんだけど、これはそういうものとはまったく別次元のもので、学知としてものすごくがっちりとした基盤を備えた、とても厳密に組織された理論的言説なんだなと印象をあらためた。絵画なり彫刻なりといった芸術作品の表現された目に見えるものの諸水準を通じて、段階的に、この可視的なものが隠している読めるもの、聴き取り可能なものの潜む、より深い水準への漸近的な移行を跡づけていくパノフスキーのここでの仕事の手腕はとても説得力があるし、読んでて圧倒される。そこでの全体的な解釈における理論的枠組みはディディ=ユベルマンの本にも転載されてた便覧として見やすいかたちで提示されていて、『イメージの前で』を通読したときにはいまいちピンとこなかったそこらへんの論点も、実際にパノフスキーの論述に接してみてなんとなくはイメージすることができた。もちろん専門的につっこんだことは何もいえないけど、パノフスキーの論述はたとえば絵画の物質的な所与としての平面を覆っている奥行きの信憑のなかを踏査してゆくというような構えになってるんだろうと思う。造形された形とかモチーフとかいった絵画的な画面を構成する最小単位としての細部要素が見られる相対的に手前にある部分(解釈学の視線にとっての前景、前庭をなすような場所)から開始して、物語とか寓意とかいった意義可能な概念を表現する背景的なテーマ群の層に進んで、そこからさらに奥深いところにあるはずだと信念されている純粋に見えないもの、見えないものってより、むしろ読むこと、聴くことだけが可能なものの象徴であり同時に想像的なものでもある虚焦点のような閾の点、曰く「人間精神の本質的傾向」にまで至る、そんなような文化的で観念的な浅さと深さのかたちづくる空間をつぶさに測ってゆくということなんじゃないかな、と感じた。パノフスキーのここでの論述に対して奥行きとか空間とかいった語彙で表現するこういう印象は間違ってるのかもだけど、つまり著者はそもそも書物の始めから人間的(人文主義的)精神の時代や状況に応じて変状をこうむるかぎりでの表現物、歴史的な強制力によって姿態を規定される、経験された出来事の凝集物としての芸術作品の像みたいなものこそを描き出そうとしていたのは確からしいんで、それを場所とか奥行きとかいった空間的なメタファーを通じて見てしまうのはやっぱりまずいのかもしんない。でも、どうもそんな印象がぬぐえない感じはあるな(本棚にささってる以前読んだ『象徴形式としての遠近法』なぞをチラッチラッと横目で見ながら、どうしてもそんな印象を抱いてしまう。読み直してみたほうがよろしいだろうか?)。このパノフスキーの見事に描いてみせた線描のフレームみたいな芸術作品の解釈の枠組み、その歴史の遠近法的な構成から、たとえば不穏な色彩がキャンバス一面に血溜まりみたいに拡がりだす瞬間に立ち会おうとすればディディ=ユベルマンの『イメージの前で』みたいな書物が現れることになるし、消失点の放つ効力が完全に失効して仮構された不動の構図が破れ、もはや居場所を失った鑑賞者が以降「人間精神の本質」などとは互いに眼差しを交わすことがいっさいなくなる、そんな白光した瞬間を見出そうとするなら、たとえばマネの絵画に関する講演についやされたフーコーの言葉が紡がれることになるんじゃないだろうか。イコノロジーとか象徴の解釈とか、この本読むまではちょっと軽視していた感じは否めないんだけど、本物はいろんな意味でやっぱりすごいよなって痛感した。この本読んだらアガンベンの『スタンツェ』とかベンヤミンの芸術関連の本をもう一度読み返したくなった。文庫でお手軽に読むことができるパノフスキーの著作がまだあるみたいだから、とりあえずは来月あたりそっちの方も手に取ってみるつもり。

 オレンジペコーの「やわらかな夜」が久しぶりにテレビのCMで使われてたね。名曲すな。