なんか地底人っぽい着こなし

 買ったまま積みっぱなしだったドゥルーズの『シネマ1』をようやく読みはじめてみたらのっけからベルクソンの名前が出てきて、『創造的進化』とか『物質と記憶』とかいった本の名前が論述の参照先に挙げられてた。だもんで、じゃあとりあえず準備がてらそっちを先に読んでおこうと、まずは『物質と記憶』を久しぶりに読み直してみたんだけどこれが自分には相変わらず難しい内容の本で、つまりベルクソンがそこで何を言いたかったのかは字義どおりに書物の言葉のうわっつらをひいこら追っていくかぎりでまあなんとか了解はできても、理路のかたちづくる細かい折り目の部分、これがこうだからそういうことになる、みたいな肝心の論理的な繋がりの部分がいくら頑張ってももうさっぱり頭に入って来ず、そのうち脳みそが焦げついて黒っぽい煙を上げはじめたもんだから、こりゃいかん、どけんかせんといかん!って結局本を投げ出すはめになった。ベルクソンにかぎったはなしではなく、哲学はどれも難しくてほんとお手上げだよ。ベルクソンがわからないんだからそれを下敷きにしてるドゥルーズがわかるわけもないんだけど、このまま読まずにいるわけもいかないし、『物質と記憶』から逃げ出すみたいにして『シネマ』の方に手を伸ばし意気消沈のままこっちを読み始める。そしたら一週間が終わってた。いつもどおり何も手ごたえのないまま時間ばっかり過ぎてったよ。
 そんな感じだから『シネマ』の方はまだ30頁ほどしか読み進めていないんだけど、こっちの方はこれからそれなりにおもしろく読んでゆけそうな予感はする。ドゥルーズは論述を開始するにあたってベルクソンから引き継いだ運動イメージの概念を援用しながらこれをさっそく映画のフレームの考察へと適用する。映画の画面が取り集めるイメージの諸要素が見えるもののかたちづくる集合にあってどんな具合にその場に固有の運動を展開するエレメントとして振る舞うことになるのか、みたいなことなのかもしれないけど、まずはじめに提起されたフレームに関するこの「きわめて単純な定義」において、イメージを形成する内容と形式の関連が「幾何学的」なものと「力学的」(または「物理学的」なもの)との対照を示している、というドゥルーズの指摘がさっそく興味深い。まだ何も理解できていないからこれはいつも以上の放言になってしまうし、来週あたりには赤面して「そんなこと何ひとつ言ってなかったんですけど?」みたいにスルーすることにしてしまいそうなことを記しておけば、フレームにおける幾何学的な運動イメージの組織化って点については以前書いていた高野文子のマンガに関するまとまった文章での論点にもかかわりそうだなという予感がしないでもないし、力学的なフレームの効果という点に関しては、たとえば黒田硫黄のマンガを考えるときにいつも気になっている感じ、毛筆で引いたようなあの太い線、線ってよりほとんど塗りの感覚にも近い、彼のマンガの紙面に見られるあの黒さと白さの荒いぶつかりあいみたいなものを考えるさいのとっかかりになりそうだな、という予感がする。予感がするってよりは、以降そんなふうなことをちょっと念頭においてこの本を読んでいくことになると思う。あてが外れたらそれまでのことで、おとなしく意見を拝聴することにするけど、それ自体としてはあまり興味がない映画に関するはなしをただ黙って長々と聴いてるのも辛いだけだから、多少強引でも自分なりに興味のある主題に引きよせて接しつつ何かひとつでもお土産をいただく所存ではある。幸先良さそうな感じではあるんだよな。
 
 きゃりーぱみゅぱみゅの「つけまつける」。楽曲もいいけどPVのダンスもいい。一緒になって振り付け真似てるとだんだん楽しくなってくるよ。「PONPONPON」って曲もなかなかご機嫌で、いい年こいてちょっとはまってしまった。中毒性高し。