トシヒコ横浜

 ゴールデンウィークもそろそろ終わってしまうけど連日のこと一日中家の中でごろごろしてるだけで気づいたら日が暮れてるというような体たらくで、いつものことなんだけど結局どこにも出かけずに連休を過ごしている。もともと極端に出不精なたちなもんで、二、三日にいっぺんコンビニにでも寄りに外へ出ればあとはもう一週間でも十日でも平気で家にこもっていられるというしけたこころの作りになっていて、でも特別に外出が嫌いってわけでもなく、休みが始まる前には、連休中に海の見える町にでも電車で出かけてみようかなとか、調べたら大きめの美術館がチャリで一時間くらいの近所にあることが判明したんでそこへ実物の絵を(常設展示でレンブラントのやつとかを掛けてあるらしい)見に出かけてみようかなとか考えたりもしてたんだけど、決断しかねてるうちになんだか億劫になってしまい、結局こうしてひきこもったままで長い休みも無為に終わっていこうとしている。いつもどおりすな。いつもどおり死人のように生きてますな。
 自分から外へ出ないかわりに、本やCDはキーボードのエンターキーをポチっとするだけでそのうち勝手にこちらへとやって来てくれる。外へ出ることをうながすかけがえのないきっかけがこうして月に何度か消えているわけで便利なネット通販も良し悪しすな。『ジョジョリオン』の2巻と電気のニューシングル「Shameful」は先月に出てたんだけど、これらはBK1で貯まったポイントだけで費用をまかなえてしまった。一万円以上同時購入でついてくる特典1000ポイントがマジはかどる。本買うのに実質10パーセント引きみたいなもんなんだけど、こっちとしてはすごく助かるこの制度はでもお店側として無理しすぎていはしまいか?とかちょっと心配にもなる。ありがたいけれども。小説を一冊、この前読んでおもしろかったナボコフのなかから手に入れやすい『ロリータ』と、以前から興味があったんだけど値段のせいで買うのにふんぎりがつかなかったルーセルの戯曲『額の星 無数の太陽』をチョイス。すぐには読まないだろうけど積ん読棚ですこし寝かせつつ自分の気持ちをうかがってそのうちに手に取ってみようと思ってる。いつでも取り出せる、すぐ目に入るところに気になる本がいつでもスタンバってくれてると思うとちょっとワクワクする感じがして、この感じがすごく好きだな。あとはパノフスキーの『イコノロジー研究』上下巻とハル・フォスター編『視覚論』の二冊を最近読んでる美術系、イメージ論系の本のつながりで。暇つぶしもかねてマンガについて自分で何か書くのに勉強がてら読み始めたこれ系の本なんだけど、有名どころばっかり選んでるせいもあって手に取る本いちいちがおもしろいもんだから、これはちょっと当初の目的から逸れつつある感じはある。近いうちにさっそくどっちかから読もうと思う。本は以上の5冊。それから今月は久しぶりにDVDを買ってみた。市川準監督の『トキワ荘の青春』。「青春」って言葉こそタイトルではうたっているものの、その後ほどなくして筆を折るこの時期のテラさんを主役に据えてる作品だけに、全篇通じて暗くて静かな印象が強い映画だったね。辛気臭くて嫌いじゃない。すごく素朴に一マンガファンとして、トキワ荘関係という興味のある主題にかんする史実にもとづくモデル映画みたいなものとして楽しく観れた。藤子Aさんを演じてた役者さんが役柄のなかでいちばん自分の思い描いているモデル本人の印象に近いかなあと感じた。赤塚役の人はどうなんだろう。よく当時の赤塚は美青年みたいに回想されることが多いような気がするんだけど、その人づての印象をもとにした自分のイメージとはちょっと違った。出番は少なめだったけど水野英子が出てきたのもよかった。Aさんの『まんが道』じゃ存在自体消し去られてしまってる水野英子だけど、トキワ荘の廊下で藤子不二雄のお二人が彼女と気まずそうにすれ違う場面はちょっと笑えた。水野役の女優、地味なんだけど男の子みたいな強い顔立ちをしてて印象深かったんで気になってちょっと調べてみたら、「インディーズ映画の女王」みたいな肩書きもある有名な女性だったんだね。経歴を覗いてみてへーって感心した。今は活動休止中らしい。あとは映像特典で観ることのできた存命中の森安直哉のインタビュー映像とか嬉しかった。例の「キャバキャバ」笑う表情こそ見せなかったものの、笑顔で当時を振り返って、でも「ほんとに嫌な時代でしたよ!」みたいなことを平気で発言できちゃうところがKYすぎてすごいと思った。思い出として美化して片付けることができない何かがまだ彼のなかにわだかまってるのかなとか思ったし、その種の甘美な思い出の抽象性をしりぞける記憶の現在的で厄介なありかたなんかは、案外ほかの成功したトキワ荘メンバーの誰よりも、森安こそ、テラさんの早すぎる晩年を捕らえた呪縛的な時代とのかかわりかたに近いものがあったのかもしんないな、とか感じた。永田竹丸とか坂本三郎が本編に登場しなかったのは残念だけど、森安の退場と赤塚の不遇を描いたからには、さらにそのうえで彼らの見せどころを作るのはたしかに難しかったかもな、とか思った。あとは石森のお姉さん役だった女優さんの放つ強烈な薄幸オーラにひるんだ。あの人実生活でも大丈夫か?
 読書のほうは四、五日かけて蓮實重彦の映画論=イメージ論『ゴダール・マネ・フーコー』を読み終えた。なんだろうね、とてもおもしろかったんだけど、自分がマンガとか小説を読みながら考えてたりすることと被るところがけっこうあるもんだから、この本で蓮實の語ってるところをそれとして抽象して取り出してあらためてこの本単体で感想を書くことがちょっと面倒くさく感じてしまうところがあるな。もちろん自分が蓮實重彦とかゴダールとかとおんなじこと考えてるんだぞ、とかそんな大それた(?)ことを言ってるんじゃなくて、そもそも自分が批評のこととか作品の読み方のおもしろさを勝手に教わったと考えてる初発のところが間違いなく学生の頃読んだ『表層批評宣言』だったりする事実があるわけで、以来、明に暗に、強弱のニュアンスこそ場合によってさまざまだけど、蓮實的なものの見方というものが自分がどのジャンルの作品を味わうさいにも越えられない限界みたいなものとして存在していて、そこで考えることや感じることをずっと影から定めている、という感じはある。思考とか感性の底の部分に蓮實重彦(だけじゃないけど)の言葉がマジックメモの薄紙の下に残された筆跡みたいにして残り続けてて、自分の眼ではその文字をじかに見ることはできないんだけど、確かにそこにあって書くことを決定づけている、という、ある種窮屈な感じもある。要するに考えることや感じることは誰かの考えたことや感じたことの刻まれた書物の文字の連なりの、さらに粗悪なコピーであるというような感じが強い。ただ、蓮實重彦その人の発する言葉すら映画という彼にとって特権的な参照先からこうむったコピーとしての自身の存在様態を律儀に映画のイメージへと送り返すというような相互的な影響関係から逃れようとしているわけじゃないんだろうから、ここにはイメージや言葉と思考や感性をめぐる起源を欠いた大掛かりな反復の強いる舞台のうえで演技が幾度も繰り返し演じられている様が見られることになるんだろう。それらをそれらのものとして見分ける確たる識別のしるしも見失った舞台の本番と稽古との両演技のあいだで、もはや宛先も目的も欠いた類似の劇の反復が宙吊りのまま繰り返されて、そのうちの不調に終わった稽古とも本番とも定かならぬ一回の上演のうちのひとつに、自分の書いた言葉がネットの片隅のこんな小さなブログで再演させたパフォーマンスの幾つかがあるってことなんだろうとも思う。フーコーの言葉を引きつつ蓮實重彦が的確に書いているんで、論考の前後の文脈も無視して孫引きも交えて引用しておく。

 あたかも『マネの絵画』の孤独から抜け出そうとするかのように、フーコーは、「フォトジェニックな絵画」で、「われわれは今、絵画が、芸術としてみずからを”純化し”、高めるために、絵画として絶えずみずからを最小化してきたこの長い時代から抜け出そうとしている」と書く。そこでの「絵画は、通過の場所、無限の越境となることを受け入れ、……イマージュのありとあらゆるテクニックと同化」し、「画家はもはや画家だけでは存在せず、唯一の至上の絵画など存在しない」はずだというのである。そこでの画家は、「イマージュの花火師、手品師、盗人、密輸人」といった「あらゆる種類のアマチュアの群れをふたたび見出す」。

 「アマチュアの群れ」、ほんとそうだよなと思う。「イマージュの花火師、手品師、盗人、密輸人」たちが今日もどっかで、「通過の場所」で、「無限の越境」そのものであるような自身の放ちうるかぎりのイメージと言葉とパフォーマンスを、小さく散発させ炸裂させているんだろうなと思う。これはうん、とても心強いことでなんではないかな。蜘蛛の巣の糸のめぐらせるか細い一本にすぎないことは確かなのだとしても、一本は、やはり無とは異なる、一本だもんね。たまに蓮實重彦に対して露骨に嫌悪感を示す人たちの言葉を見かけることがあるけど、そんな人たちは敵視する対象を明らかに間違ってるよと思う。その種の人たちは好んで自分からわざわざ蓮實を「下から目線」で見上げて勝手に恐れ、勝手に怒ってるようにしか見えないんだけど、対立を作る分割の線はそんな蛸壺みたいな狭い場所に引くもんじゃないってつくづく思う。彼らや蓮實重彦を同時に含む「花火師、手品師、盗人、密輸人」こそが、言葉のもっとも広い意味での「実務家」たちの手によって、調整だとか管理だとか馴致だとか軽蔑だとか囲い込みの対象として時にはもてはやされたり、あるいはしばしば恫喝されて、またはやんわり手引きされて、けっきょく飼い馴らされようとしているの明らかでしょう。出荷予定の自分の蓄獣同士が喧嘩しているのを柵の外から眺めながら、その騒ぎを健康優良品の証としてひそかにほくそ笑んでやに下がってるような者たちのにやけた視線を忘れちゃいけないだろうって思う。まったく本の感想にならなかったんで、このへんで無駄なお喋りをやめとく。

 電気のシングルが出たばっかりなんで、卓球名義だけどいちばん好きな曲を紹介。石野卓球で「stereo nights」。長いこと折にふれ聴きかえしてる曲なんだけど、耳にするたびにいまだに救われる気分になる。寂しいのも悪くない。