「田辺のつる」

 
 マンガ描くのも一段落ついて最近はまた暇になった。暇と言えばいつだって暇な人生なんだけど、ここ数ヶ月のような能動的に行う楽しい務めのようなものがなくなってしまったという意味で、暇オブザ暇みたいになった。今月に入って買ったメビウスの『アンカル』を4、5日かけて読んだり、丹生谷貴志の新刊を読んだり。高野文子の連載が掲載されてる「モンキービジネス」は今号が最終号らしいけど、買ったきりでまだ目を通してない。最近見つけたマンガ家だと、つばなという人の作品がほっこりしてて楽しい。『見かけの二重星』という、目にした瞬間これは読んどかなきゃと個人的に思わせるタイトルの単行本を見つけて、そこから『第七女子界彷徨』という変わったタイトルをした彼女の作品にも手を出し始めた。どっちも楽しい作品で良いマンガに出合えて幸せだ。
 ただやっぱり人の作品を読んでるだけじゃ物足りなくなってきて、自分でもまたマンガなり文章なりをかたちづくってみたい気持ちが強くなってきた。マンガはこれからじっくりと考えるとして、自分にすぐにできそうなのは文章のほうだ。苦手な絵描きですら3ヶ月時間をかければ、出来はともかく、何らかのかたちにはなるんだなってことがわかったので、文章もそんくらいの時間と労力を費やせば割りとまとまったものができるんじゃなかろうか? 500枚くらいの文章がかけたらそりゃ楽しいだろう。書いてるあいだも暇をつぶせる。じゃあ何が書けるのかって考えると、小説についてそのスケールの文章はちょっと難しい。ほぼ19世紀の海外文学しか読まないし、それも原書じゃなくて翻訳を通じてぽつぽつだ。マンガについてなんか書くか。自分のマンガの読み方がまったく怪しいもんだって自覚はあるし、だいたい読んでる作品の分量がいわゆるマンガ好きみたいな人たちとはくらべもんにならないくらい乏しいことも知ってる。けどまあ、そこは自分なりのこだわりみたいな、固有の癖のようなものも多分あって、それが誰にもかえりみられないんだとしも、見るべきところをそこだけ限定で掘り下げてったらマンガの時みたいに何ヵ月後かには自分だけの何かが出来上がっているかもしれない。
 このブログはサブアカで書いてるものなんだけど、本アカで書いてた期間を含めて、なんだかんだで断続的に5年くらい感想を書き続けてる。(ぎゅっと圧縮したら1年分にもならないだろうけど)。そこからも文章をサルベージして新たに追加したり早書きの部分をきちんと展開すれば、これをうまくまとめて望むとおりの分量ものが出来上がるかもしれない。いっちょやったるか、と。
 おもに取り上げたい作家についてはだいたい決まってる。高野文子中野シズカ三好銀市川春子こうの史代、この5人。テーマもなんとなく決まってる。切り口もまあいつもどおりの感じになる。……と決心して書き始めたのがだいたい一週間前のこと。最初の章の一節分が書きあがったのでここにアップしておくことにした次第。けっして他にブログに上げる文章が書けなくて代わりにこれを上げたというわけじゃない。丹生谷貴志の本の感想を書くのに詰まってしまったから埋め草で上げた、とかいうことじゃない。おわかりいただけるだろうか? 


扉の向こう側


作家による扉の描写はごく簡素なものだ。簡素すぎると言っていいかもしれない。場面は1ページ全体を使って、その部屋の奥に位置する廊下へと通じる扉を正面から捉えている。こちらから見て扉の右脇に据えられている小物類の置かれた棚の、その部材がかたちづくる稜線から判断すると、高さ幅ともに視点は扉のほぼ中央付近にもうけられており、この焦点はまた、当の扉が描かれているコマ全体、ページ全体の中心ともほぼ正確に一致するようだ。上下の框と両脇の枠木に囲まれた矩形の扉は、その左右に連なる壁と同様白一色に、というよりも無地の、ペンのインクによっても墨のベタによっても描きこみがほどこされていない、今まさに読み手の目の前にあるはずのこの単行本を構成している紙の素材そのままの状態を露わにしている。この空白となっている矩形の空間の向かって右手、高さとしてはそのほぼ中央に見えるドアノブだけが、その小さな真円による描写だけが、この白一色の長方形の空間が扉であることを積極的にわたしたちに告げてくれるものであるようだ。扉の周囲の空間には鋭角にすぼんでいく小さな尻尾を生やした、風船のようなほぼ円形の図形が、大小少しずつ規模をたがえながら都合11個、高さを変えながら配置されており、その小さな尻尾はいずれも扉のある空白の空間に向かって収束するよう放射状に角度を調整されており、そしてこの風船のような個々の図形の線で囲われた内部にはいずれにおいても写植された文字が印字されており……、とはつまり、このあたりで無知を装ったわざとらしい記述を止めれば、これは無論マンガの用語でいわゆるフキダシとよばれる図形であって、フキダシ内部の文字列は登場人物によってその時話されているセリフを表すものである。風船に生えた尻尾はこのフキダシ内部の発話の内容を語る人物をじかに指し示す指標であるが、しかしこの扉の周囲に浮かぶ風船にはそれらの発話内容が帰属するべき発話の主体がぽっかりと欠けてしまっていることに気づくだろう。11のフキダシがそろって指し示すページの中心、扉の前には空白が広がっているばかりで、これらのセリフがその者の口から発せられ、あるいはその者の意志や心情、思考等へと属するべき当の発話の主はその中心の場所にはいっさい見当たらない。そこではあたかも、空虚がおのれの不在である身分を裏切って不意に翻意し、目には映らないがそこには確かに存在する透明人間か幽霊のごとき装いをかりて現われ出し、空虚であるその場所において自身の空虚さをのみ告げる嘆願や哀訴のことばを語り始めてしまっているかのような様相を呈しているとも言えるかもしれない。完全なる真空の場において語り始めるそれじたい真空でもある、誰でもないとしか呼びようのない者から繰り述べられる不定愁訴のことば、あるいは早くも悲鳴へと発展しつつあるその兆し、そこに一片の狂気も孕まれていないとは、おそらく、もはや誰にも断定できないであろう決定的な変調をこうむってしまった発話、懇願のことば、悲鳴。
完全なる真空。存在の空虚な中心。……しかし、事態がすっかりそのようなものであるとは言えまい。見えるものの形象が埋めるべきこの空白の扉の中心の縁にそってこれを放射状に飾り立てるかのように配置されたフキダシの風船、ページの左右と高さを違えて配置された11個のフキダシは、その書き言葉に固有の読みの順序にしたがい、上から下へ、そして右から左のフキダシへと、読み手の意識を時間の線にそってなめらかに流していくことになるだろう。個別のフキダシ内部で2行以上にわたって記述されるセリフが読み手においてそう読まれるように、それと完全に即応したかたちで、11のフキダシがかたちづくる浮遊する風船群もまた、線的な上下動と右から左への一方通行的な移動という確乎とした秩序においてこれを読まれることができる。描かれるべき形象の水準において完全な空虚を示しているこの扉の描写は、しかしその場所から、時間というひとつの純粋形式を読み手の意識に向けて吹き込んでもいるだろう。それとは性質の異なる時間もまた、この扉の空白を通過して私たち読み手の意識へと同時に到達する。フキダシの配置が作り出す時間の純粋なフォルムとしての線状的な形式とは別に、フキダシ内部の発話されたことばの内容が生みだす不純で渦巻き状をした、粘度の高い歴史的・回顧的な時間、もつれにもつれた毛糸玉の塊のごとき時間が姿を現わす。作家によるこの水準における時間の性質を描く描写は、11のフキダシが配置された一枚のページ絵の、その2ページ前から開始されている。マンガの絵として描かれる見えるもののレヴェルとは異なる位格にある、このセリフにおける発話されたことばの内容は、これをすべてこの場に抜き出してくることができる。便宜上、引用の規則をもうけておくとして、ハイフンで区切られる最初の数字はページ数を、次の数字はページ内で充てられたそのコマの順番を指示するものとする。最後にアルファベットが振られている場合はそのコマ内で複数あるセリフの読まれる順序を指示するものとしよう。ページ内部でコマがひとつしかない場合は、ハイフンによる区切りを用いず、ページ数を指示する数字だけを表記する。セリフはフキダシ単位で鉤括弧により閉じるものとする。フキダシ内で改行がある場合は、スラッシュで区切ってこれを再現するものとしておく。

「るりちゃん/るりちゃん」(78-4) 「ごめんね/もうしない/から」(78-5) 「ごめんな/さーい/もうしません/いい子に/なります」(78-7) 「ごめんなさい/ごめんなさい/いい子に/なりますから」(78-9) 「おかーさーん」(78-10) 「ここ/ちゅうちゅうねずみ/でるんですー/こわいのー/あけてー」(79) 「きんぞー/きんぞー/いい子に/なりますね」(80a) 「おとうさまが/帰って/らっしゃい/ますよ」(80b) 「早くここ/あけて/出てらっしゃい」(80c) 「あなた!」(80d) 「あなた!/ここあけて/下さい」(80e) 「何して/らっしゃるん/ですか」(80f) 「あなた/はやまったこと/しないで下さい/私達どうしたら/いいんですか」(80g) 「ここ/あけて/下さい」(80h)「お願いです/あけて/下さい」(80i) 「あけて/ください」(80j) 「あけて/ください」(80k) 「なーんだ/るりちゃん/でしたか」(81-4)

抜き出した一連のセリフは、絵として描かれる人物の形象のレヴェルに定位するならば、これらすべて、特定の同一人物が口にしたことばとして読まれることになる。ここでの発話が開始される時点(78頁の4コマ目)ではすでにこの発話の主体は扉の向こう側へと姿を隠してしまっており、部屋の内側、固く閉じられた扉のこちら側には、この発話の主の孫娘で部屋の所有者である16才になる女の子と彼女のボーイフレンドである若い男だけが残っており、双方ともに不意に襲われた物思いに捕らわれでもしてしまったかのように姿勢を固めたまま、扉を隔ててなお響きつづけるこの連続する声により耳朶を打たれつづけている。「なーんだ/るりちゃん/でしたか」という発話にいたるまで、この一連の場面に発話の主体が直接的に絵として描かれることはない。何者がこの一連の声を発しつづけるのか。同一の人物が複数の声音を使い分け、複数の者らに向けて、それぞれの聴き手にふさわしく嘆願や誘導による複数のことばを(「きんぞー」には母として、「おかーさーん」には娘として、「るりちゃん」には祖母として、「あなた」には妻として)語りかけているというのか。しかし扉を閉ざした部屋の中には二人の人物しかいないことを私たち読み手はすでに知っている。事態はおそらく上記の問いかけとは逆の推移を示すものであって、扉の背後から一人の人物が複数の者らに語りかけているというのではなく、形象として描かれなかった扉の空白において、コマ内部に発生しているこの真っ白な余白の空間において、絵としてはけっして目には映らないものが、セリフのことばによる見せることの効果のもとに、主体を複数の線にそってその数だけの存在へとひび割れさせていることになるだろう。私たち読み手はその時、この扉の空白において何も見ることができないという一種の真空が強いる窒息にも似た状態のごときものを経験しているのではない。四辺の枠木とドアノブの存在によってだけかろうじてそうであることを保証されたこのほとんど非在の扉、紙による真っ白なスクリーンにも似たこの余白の上で、私たちは複数の人物やそれらの人物が演じる複数のドラマ、その個別のシーンの数々によるイメージ群を見取ることが可能となっている。もつれた糸玉のような不純な時間とはこの錯綜した複数のイメージが扉の余白の上で描く歴史的で人間的な光景のことでもある。あるいはそれを人間的と言ってしまうことには語弊があるかもしれない。扉の向こう側にいるものであるとかろうじて信憑されている人物が発話が更新されていくその都度、主体的な統一性を欠片を生むように割っていくのだとしたら、私たちはそこに、人間に準ずるもの、人間の下部にあるもの、副次的にのみかろうじて人間であると限定できるもの、そのようなものの姿のみを見出すことしかできないだろう。「ボケてんのよ」(78-6)、「もうろくしてんの」(78-8)、事態をそのような日常の光景に還元しようとする孫娘の言辞は的を外している。私たちが作品のこの紙の上で見ようとしているものとは、おそらくそれ以上の、あるいはそれよりさらに下で起っているであろう何かである。
扉の余白が余白であるまま、その紙面の無垢な白さにおいて語りだすところのもの、描き出すところのものは、しかし輻輳した人生の時間における複数のイメージの過剰によって、空虚さや真空の沈黙とはまったく反する、雑駁さや喧騒にも似た事態として現われているだろう。セリフによって暗示されている個々の場面をそれに相応しい絵としてそれぞれに結実させようとするならば、そこにおける図像の全体はこの扉の余白のために割かれているページの一画を大きくはみだしてしまうことになるだろう。あるいはそれは現実的に言って不可能でさえあるだろう。扉の表面にのぞく空白の地帯は空白どころの話ではなく、潜在的にはその面は、イメージの線が奔逸させる無数の形象によって溢れかえっているとさえ言える。余白の白さが紙の属性としての白さのまま、無数の線によって描きつぶされ、それによりほとんど黒一色へと反転していくかのような事態が紙面の潜在的な次元で起っている、そう言ってもいいだろう。
目に映るべきかたち、描かれるべき人物のかたちが空白の混入によって阻害されてあり、同時に、本来は目に映らないもの、かたちを成さないものであるマンガの図像的な指標がこの空白の周囲にフキダシとして書きことばとともに描かれる。見えるものと見えないものとのこの位格の反転において、扉の余白部分は私たちの視線に対して垂直方向に伸びる軸として機能している。見えるものは背後に隠れ、見えないものがその前面へと浮かび上がる。私たちが目を凝らして見るべきもの、見えるべきものであるはずなのに見えないもの、しかし見ることが不可能なはずなのに私たちがマンガの絵を見るときにはそれを見ずにすますこともまた不可能なもの、それはこの扉が描く表面の余白に極薄のスクリーンのようにして視線の限界をもうける紙の表面と呼ばれる境界面であるはずだろう。紙の白さとペンによって引かれる線の黒さ、そこにおいて限界をもうけられるものとそれ自体の運動により限界の線を引くもの、背景や地をなすところの水準とその平面に形象の輪郭や図を描くところの水準、交じり合うこれら二つの異質な面が合流しひとつのものとして私たちの視線を迎え入れるところのもの、それが作品の表面と呼ばれる経験の場所になるはずだろう。それは黒さと白さの祭典とでも呼ばれてしかるべき経験でもあるはずだ。

……私たちが先ほどから依拠しているこの作品名とその作者の名とをそろそろはっきりさせておいたほうがよいだろう。作品は『絶対安全剃刀』という総題をもつ単行本に収録された「田辺のつる」であり、最終ページの欄外に記された日付けによればこの作品が1980年に描かれたものであることが確認できる。作者は無論、高野文子である。同じく欄外の日付けで確認できる作家のデビュー作である「花」が「1977.9」と見えるところから、この「田辺のつる」が高野文子の現在にまでいたる経歴の中のごく最初期にあたる時期の仕事のひとつであることも確認できる。扉の空白の背後に隠れた人物として私たちが指示しておいた女性は作品のタイトルにも名前をかしている82才になる「田辺つる」であり、孫娘にあたる「田辺るりか」の作中での口ぶりをかりれば彼女はすでにすっかり「もうろく」して「ボケ」てしまっている。先ほどセリフを適宜つまんで引用したくだりは「るりか」と彼女のボーイフレンド「上原」とがいる部屋での場面であり、二人の邪魔となってしまっている「田辺つる」が部屋から閉め出されて、扉の背後の暗い廊下から扉越しに孫娘へと謝意と反省のことばをかけるところから始まっている。もつれた糸玉のような塊と化した時間の経験として素描しておいたあの混乱した発話も、これらを作品の明示的な関係性の中で解きほぐしてみることは特に難しいことではない。「るりちゃん/るりちゃん」から始まり次のセリフへと引き継がれる最初の二つの発話(78-4,78-5)は、部屋から閉め出されたばかりの「田辺つる」の目下のその人としての状態・境遇からの発言であり、明確に自分の孫娘に対して寛恕を請うものとして発せられている。それにつづく「ごめんな/さーい/もうしません/いい子に/なります」(78-7)という発話では、最前までの懇請のためのことば(「ごめんね」)はすでに自分に下されている罰への謝罪を表明するへりくだったものとなっており、その時祖母としての「田辺つる」は消え去って、母親に対する小さな娘としての彼女が扉の背後のイメージの中に現われている。人物の意識を巻き込む人生の時間の混濁が始まってしまっており、彼女の息子で現実には49才になっている「きんぞー」への呼びかけから始まる発話の連なりでは(80aから80cにかけて)、何らかの理由から愚図って扉の背後へと立て篭もっている幼い「きんぞー」への懐柔としてのことばが、幼子をもつ母親の年齢に相応しく、おそらくまだ若い母親としての「田辺つる」により発せられているだろう(「早くここ/あけて/出てらっしゃい」80c)。「田辺つる」は扉の背後にいるのではなく、いまや扉の前に立っている。記憶の混線と言って差し支えないようなこの状況にあって、「あなた!」(80d)という呼びかけとも叫びともつかない切迫した発声から始まるくだりは、彼女の生み出しているイメージが私たちのイメージをも巻き込んで、現下の事態が彼女の夫の身の上と家族の未来にとって差し迫った窮境を迎えていることを伝えているだろう(「あなた/はやまったこと/しないで下さい/私達どうしたら/いいんですか」80g)。「田辺つる」の夫に何が起こったのか。それを具体的には作家の記述と描写はいっさい私たちに告げ知らせていない。私たちは「田辺つる」の生きた記憶のイメージ群を、彼女とともに扉の背後かその前面に立ち、マンガを読む時間の中で、そのようなものとして生きることしかできない。妻としての「田辺つる」が夫に向けて発する嘆願のことばはおそらく「お願いです/あけて/下さい」(80i)の一言で終わっており、以下に二度繰り返される前言とまったく同じ内容をもつ言表(「あけて/ください」80jおよび80k)は、「下さい/ください」という作家により自覚的に選ばれた漢字の使用の有無により、おそらくは後二者の発言がすでに再び、現在の「田辺つる」その人へと帰属するべきものに戻っていることを暗示しているだろう。こうして、混線した「田辺つる」の時間は「なーんだ/るりちゃん/でしたか」(81-4)の一言によってもう一度彼女の現在へと追いつくことになるだろう。その時「田辺つる」は再び、扉の裏側に立っている。
造形された人物としての「田辺つる」のイメージそのものにも言及しておくべきだろう。一篇を通じて彼女の容姿は幼女の外見においてイメージされている。「もうろくして」すでにすっかり「ボケ」てしまった者として家族に認められており、行動と発言において一種の幼児帰りを果たしている80才を越えた彼女が幼女の姿形で描かれることには、そこに作家の暗喩的な表現による造形への企図を明瞭に見て取ることができる((一九七九年に発表されたこの作品の32年後、西村ツチカが「田辺のつる」と類似の趣向のもと一人の人物を生み出し、「真弓さん」と呼ばれる老女の中身に外見の若さ、幼さを併せ持つその女性は、「田辺つる」における暗喩的で詩的でもある変貌の意匠を現実的で散文的でもあるだろう「若返り」という生理学的な事実として、彼女の人生の持続の中で生きなおしてみせることになるだろう。(西村ツチカ「かわいそうな真弓さん」『かわいそうな真弓さん』所収)))。幼女の外見に老女の中身というイメージの上でのこの齟齬において、ひび割れた主体から剥がれた記憶の諸イメージはそこに自身を吸着すべき表面を見出している。「田辺のつる」に描かれる扉絵が私たちに示唆するものとはそのような事態であるようにも思われる。児童向けの切り抜き絵になぞらえられて描かれるその扉絵には、通例の用途にしたがい、この類の工作を遊ぶ子どもが喜ぶであろう様々な着せ替え用の着衣(花嫁衣裳やセーラー服)や小物類(帽子や傘やバッグ等)が描かれて、中央に描かれる「田辺つる」の微笑んだ姿の周囲を囲んでいる。「ハサミによって紙から切り抜かれて遊ばれることが想定される絵」を擬装しているこの扉絵の趣向において、そこに描かれる小物類や衣裳はもちろんのこと、「田辺つる」も表から見られた姿と後ろ姿との両面において、並びあった二つの姿形を描かれることになる。扉絵の「田辺つる」の描写が告げるものとは、私たちの観点においては、彼女が作品冒頭からあからさまに示している、彼女の表面として以外ありえないこの存在の在り方である。複数のイメージが吸着する面とはこのような「田辺つる」の在り方として隠れることなく露わにされているだろう。イメージはこの表面に貼りつく。
事態の推移と状況はおおむね以上のようなものであるだろう。しかし私たちがここで知ろうと欲していること、「田辺のつる」という作品において経験していることは、このような粗描で言い尽くされてしまっているわけではない。散逸しつつある人物の人格性や記憶を拾い集め、取りまとめて、ジグソーパズルを組むようにそれらをそれらの本来あるべき場所へと嵌めこみなおすことが目指されているわけではない。扉の空白を透視してその背後や前面の空間にありうべき人物や情景の数々をイメージすることが直截的に目指されていたわけでもない。私たちが見ているものとは、見えるものを見えなくしているこの扉の遮蔽幕のような余白の空間であり、同時に見えないものを見えるものとしてもいる同じ扉のスクリーンのような余白の広がりでもあり、まったく同じ訳合いから、私たちが見ているこのものは、私たちが見ていないところのものでもある。紙の表面として指定されるこの余白の広がりにおいて、人物や景物といった様々の形象のイメージがそこを通過して到来し、あるいは同じ経路を辿って消失していき、その時やはり紙は紙のまま、この余白の広がりのうちに残りつづけていることだろう。

……以上途中まで。この後は、同じく高野文子の「方南町経由新宿駅西口京王百貨店前行」をちらっとはさんで、「奥村さんのお茄子」についての記述に進む予定。あんまりにもブログに上げることがなくなったらこの先も、たまにこんな文章を代わりで上げることがあるかもしれない。