高野文子「ウェイクフィールド」

 「モンキービジネス」の最終号に掲載されてる高野文子の「ウェイクフィールド」。原作はナサニエル・ホーソーン。掲載誌が休刊してしまったということは、連載のほうも今回で最後なんだろか。最後なんだろう。毎回毎回とても変わった試みをしていてすごく刺激的でおもしろかったし、まだもう少しは連載を読めるもんだと思ってたんで「モンキービジネス」が今回で最終号と知った時は「えー?」と思ったし、残念にも感じた。個人的には、連載された4回の作品を通じて、あらためてこれまで描かれてきた高野さんのマンガの新しい読み方を教わったという感じがとても強いんで、なおさら惜しいように感じる。世間的な評価とかはどうなってんだろ? 黙狂みたいな生き方なんでそのへんがよくわかんないんだけど、そんな人間の耳にも自然と評判が入ってくるくらいには話題になってないとおかしいはずなんだけどもな。連載が始まるって話を聞いて、当時、じゃあちょっといっしょに本屋巡ってそれ探しに行くか、と同道した高野文子好きな友人(「るきさん」がお気に入りらしい)が、立ち読みで連載一回目の「謎」をざっと読んで、「これはまあ読む必要ないな」みたいな感想を呟いてその場に本を置いてしまったことを思い出す。どの作品も連載の性質上小品のおもむきの強いものだったし、セリフとかコマ割りみたいなマンガ特有の文法が規定するところからは思い切り離れたところで作られてる作品だから、とっつきにくいと言えばそうも言えるんだろうけど、小品ゆえの見やすさ、全貌の見取りやすさ、みたいなものと同時に、小品ゆえの分かりづらさ、謎めいた在り方みたいなものがそこに同居していて、高野さんの過去の作品から延びてくる線の束と、現在、そしてこれから描かれるかもしれない作品へと延びていくような線の束とが蜘蛛の巣みたいに交錯している感も確かにあって、いろんな意味で刺激的だったように思う。マンガじゃないからって読まずにおくのはほんと惜しいし、高野作品だから取りあえず手元に置いとけみたいにして放置してるのも惜しいと思うよ。みんなガシガシ読んで分からないこと、気づいたことなんかを呟くなりブログに上げるといいと思う。今いいこと言ったね俺。いい子になりたかったね。いい子になりたかったね。
 「ウェイクフィールド」には高野さんの作品をこれまで活気づけてきた対象の幾つかをあらためて確認することができるように思う。テーブルの上に仮設された小さな舞台に配置された書物だとか新聞紙から切り抜かれた人型の紙片だとかがそれで、この書物の厚みがページを繰られて展開し、さらに建物の扉だとか壁になぞらえられるところなんかは、もう高野文子的としか言えない感触があるように感じる。人型の紙片はじかに「火打ち箱」の記憶に繋がるだろうし、あるいは「田辺のつる」の扉絵にまで遡れると言ってもいいかもしんない。舞台上の人形劇になぞらえられて展開される物語の仕掛けからは、「春ノ波止場デ生マレタ鳥ハ」の少女歌劇なんかも思い出されるかもしんない。テーブルの面がかたちづくる四角形の図形だとか、新聞紙に見られる意匠化された人物を描く挿し絵というか写真みたいな表面の対象も、すごく高野さんっぽい。四角形(台形)のテーブルの上に寄せ集められた手回り品一式(書物だとか小さな花瓶、一輪の花、砂糖の詰まった小瓶、マグカップにソーサー)が舞台で演じられる劇みたいにして物語を繰り広げていく。正確には手回り品たちが自立してそれを展開する、っていうんじゃなくて、テーブルの前に腰掛けている語り手がそれら一式を用いて自分の口で物語を語りながら筋を展開していってる。その人形劇の操作の様子が作家によって正面から描かれてる。物語を語りつつ、同時に、その物語が語られうるものとなる秘密の舞台裏をも描いているって感じだろうか。その秘密の舞台裏に集められてる装置一式が、すでに高野文子的としか言えないような性格をもったものとして私たち読み手に了解されてるわけだから、読み手はここで、自作への自註をちょっとだけ披露する作家のいたずらっぽい視線に見つめられてるような感じを抱くことになるようにも思う。これ、すごくチャーミングなしぐさでしょ。短い連載だったけど、こんな風なしぐさでもって、作家はちょっとだけのさようならの挨拶を送ってくれてるんではないかしら。うん、楽しい連載でした。どうもありがとう。