市川春子『25時のバカンス』

  市川春子『25時のバカンス』

 市川春子の新しい作品集。ここ1,2年に描かれた中短篇三作が収録されてる。最近自分でもマンガを描いていたからだろうけど、これは読んでいて、明らかに今自分が嫉妬してしまっているってことを感じさせずにはおかないくらいにすばらしい作品だった。それはたぶん市川さんの作品に描かれる主題だとか世界観みたいなものを自分でも描いてみたい、描くべきだ、とかいうことじゃなくて、資質的にも才能の面でも仕事の内容としても自分とはまったくことなる場所にいるひとりの人間が、その人として、自分だけの道を切りひらいてここまでの仕事を達成しているってことに激しくムラムラと感じてしまったんだと思う。いやほんとすげえ。
 感想として言いたいことは「25時のバカンス」に描かれている116ページの一枚絵、この一枚の絵にすべてつまってしまっている。それがどんな絵なのかは、最近出たばっかの作品だしこんな詰まらんブログでネタバレまがいのことはしないでおく。単行本を買って手にして、もう是非自分の目で確認してもらったらいい。
 市川春子の作品に出てくる人物たちの一種の壊れやすさ、砕けやすさの特性については以前に書いた『虫と歌』の感想にも記しておいた。それが人物としての人格的な形象から、その個体としての形態をかたちづくっているもはや名前をつけようもない無数の塵とのあいだで、分解と(再)形態化の壮大な循環を描くことを可能にしている様子も見取っておいた。「日下兄妹」で描かれる「ヒナ」の破裂の場面だとか「ヴァイオライト」の「すみれ」の転生過程や「未来」の炎上して消し炭と化す身体なんかの描写でもはっきりと見て取れる。同じ特性は今回の作品集に収められたどの作品でも確認できるだろう(どれがどうそうなのか、とかは今はいちいち指摘はしないでおく。こんな文章でこれから作品を読む人のよろこびをうばいたくない。もったいない)。
 この市川さんの作品における人物たちの壊れやすさ(ヴァルネラビリティ)は、「混じりやすさ」みたいな、またちょっと別の特性を準備するものなのかもしれない、という感じがする。水溶性の存在という感じだろうか。「25時のバカンス」の姉が自分の身体を賭けて弟のために何をどのように捧げたか、「パンドラにて」の女学院別館で行われたダンスパーティーの見開きによる場面描写は何者たちをどのような加護のもとに混ぜ合わせようとしていたか(世界の「果て」で繰り返されようとする「新しいダンスパーティー」はもう一度、何を混ぜ合わせようと祈念されていたか)、あるいは、「月の葬式」の見開きいっぱいに描かれたあの流星群の輝きは誰の体から放たれる小さな光を新たに迎え入れようとしていたのか。異質なものどうしが相互の境界を破って混じり合うためにはできるだけ小さく、可能ならばその固有の形態を躊躇なく投げ打ってでも、みずからを構成するその最小単位のエレメントにまで還元され、砕かれ、解体されることをも覚悟しなければならない。ここではヴァルネラビリティ(vulnerability)とは砕けやすさ、壊れやすさ、傷つきやすさの特性であると同時に、でもそれ以上に、ヴァルネラリ(vulnerary)──傷をふさぐもの、癒すもの、解体からの復活を約束するものとしての側面をこそ強調するもののようにも思える。
 ここから先はちょっと飛躍して書き進めてしまおう。市川春子という作家がひとつの戦いの戦端を開いていると仮定して──、その端緒であり戦線の全領域でもある場所とはこのヴァルネラビリティとヴァルネラリの全効力がぶつかる境界面に設定されているだろうし、それを物質の基底における戦いの記録とよんでもいいだろうし、砂粒や塵にまで還元された存在の無名における振動の記憶とかとよんでもいいと思う。なんとよんでもかまわないんだけど、まずはそれが絵空事や空想なんかとはまったく関係がないってことは確かだろう。塵から生じてたかだか100年たらずの時間であったとしても確かにこの世界のうちになんらかのかたちを成して滞在し、ほどなく、ふたたび塵に帰っていくのがわたしたちの旅程表の逃れがたい記載事項であることは確かだ。絵空事にかまけているにはこの世界での滞在時間があまりにも足りないことを知っているすぐれた作家は、作品において真実しか語ろうとしないだろう。市川春子という人もそういう作家であるにきまってる(誰が何と言おうと)。彼女の描く世界のできごとは毎分毎秒マイクロ秒の戦いの現実の記録であろうとしているだろう。自然科学者や研究者たちといった職種の人物の系譜が繰り返し作家の作品において呼び出されなければならない理由もそのあたりにあるはずだ。一般人の生活の観点からはあまりにも微細か、あるいはあまりにも巨大な領域でおこっている現実のできごとは、それをよく見て取るためには生活の水準とは別のスケールをもった視野が必要になるだろう。自然科学者たちの存在はそのような視点の要請にこたえるものとして担保されている。デビュー作の「虫と歌」にはすでに生命科学の研究者が姿を現わしていて、彼らのいう「崇高な目的」、「大いなる目的」という大儀を秘かに掲げながら家族や同胞である存在を徹底的に利用しつくす冷厳なさま描かれて、一篇に苦い味わいを漂わせていた。たとえば今作の「パンドラにて」の「兄」は、このもっとも精妙でもっとも冷酷でもある科学者たちの系譜に直結してる。
 もっとも、科学者たちのそういうような性格は「虫と歌」と「パンドラにて」以外の作品ではほとんど考慮されていない(「星の恋人」の主人公の叔父である「植物発生学」の研究者が、うっすらとそのような酷薄さの気配をまとっていないとも言えないといった感じだろうか)。「25時のバカンス」の「深海生物圏研究室」の研究者たちだとか、あるいは「月の葬式」の医者となった主人公も考慮に入れていいなら、自然科学者たちの性格づけは能天気だったり妙にぶっとんでたりと、おおむね陽性の部類に属するような感じで描かれている。科学者たちもまた、市川作品においては、存在の基底に向けてまっしぐらに挺身して誰よりも深く、誰よりも間近に、できごとの全貌を見据えようと努力をするものとして描かれていると言っていい。言い方を変えてみるなら、彼らこそが物事の核心に向かってもっともよく見ること、観察すること、近づくこと、実験することを心がけている者たちだと言っていい。こうも言える。彼ら自然科学者たちこそが物事をもっともよく見ることができるだけの者たちだ、と。科学者であること、研究者であることはできごとの核心にもっとも近づく最短の方途と道のりを用意するけれど、それでは(それだけでは)できごとそのものに接触すること、より正確には、できごとそのものを自身の身体の経験において生きることは不可能だ。(資質も作風もまったく異なる作家だけど、ここでこうの史代の『夕凪の街 桜の国』を思い出してもいい。「皆実」において起ったできごとを真に生きることとは、「七波」においては、それを後知恵として追認したりすることなんかじゃなく、これを彼女じしんの身体の全経路にそって今現在もまさに活動する血の流れ、遺伝子のギフトとして思い出すことだった、そのことをあらためて確認してもいい)。
 ヴァルネラビリティとヴァルネラリの衝突面に生じる「混じりやすさ」とは市川作品に描かれる人物たちがそこにおいて生きるたったひとつの倫理と言っていい。距離を介してできごとを馴致しようとする臆病と、距離なしに無媒介にできごとを生きようとする愛への勇気、その単純でたったの二つの道だけが、このいっこの倫理の要請において試練にかけられている、そう言っていい。「25時のバカンス」のラストを飾る一枚のページ絵が伝えようとしているものとはそれ以外のなにものでもない。叩き壊され、粉々に砕け散っていく貝殻のようなものになることをも恐れることのない勇気、そのようなものが、まさにほとんど千切れかけた鎖と化した破線による描写によって、二人を愛の中で混じり合わせている。ここでは、「日下兄妹」や「ヴァイオライト」で見られたように壊れやすさや混じりやすさといった主題にそってそれにふさわしい絵が内容として描かれているのではなくて、線そのものが形式においてこの主題を語りだしているだろう。
 ……書かないつもりの文章をつい書いてしまった。このへんで益体もないお喋りをやめて沈黙することにする。まだ読んでないなら、『25時のバカンス』はぜったい読んだほうがいいよってことだけが言いたかった。