高野文子「鳥取のふとん」

 「モンキービジネス」に掲載されてる高野文子の連載三回目。原作はラフカディオ・ハーン
 前回の「マッチ売りの少女」では額縁状の六角形の形態が作品全体で描かれる図の基礎的な決まりごとみたいに機能していたけれど、この「鳥取のふとん」では、作文用の原稿用紙のマス目そっくりの区画が、そこに盛りこまれることになる図柄を分節化するための下図みたいなものとして背景(地)をかたちづくっている。そこでは、マンガとか絵が描かれるための紙が、まるで文字が書かれるための紙(原稿用紙)に擬態しているみたいにも見える。そういえば、こうの史代さんのエッセイ集『平凡倶楽部』に収められてる「かみ様々」という回では、たぶん本物の作文用の400字詰め原稿用紙を用いて描かれた鉛筆書きらしきイラストの1ページがあって、「朝を綴るかみ様」というタイトルをつけられたそのページでは原稿用紙のマス目のそれぞれが屋根瓦の一枚一枚に見立てられており、その屋根の上で憩っているスズメの群れだとか舞い落ちたイチョウの葉っぱなんかが朝の日差しの中に照らし出されてるさまが描かれていた。「かみ様々」にはその他にも三点のページ絵があるけど、いずれもこの「朝を綴るかみ様」と同種の趣向で、本来絵が描かれるのとは別の用途をもつ紙がイラストのために用いられていて、たとえば譜面と絵の合作、方眼紙と絵の合作、という具合に、いわば「紙と絵との共謀」めいた関係が擬態みたいな様態のもとに明示的なテーマとして作品をかたちづくっている。(最後の一点のイラストでは、「マンガの原稿用紙に擬態する原稿用紙」みたいな自己言及的なイタズラっぽい仕掛けになってる)。
 高野さんの「鳥取のふとん」という作品では、こうのさんの場合と似ていなくもないこの作文用の原稿用紙への擬態は、ただしそれじたいとして無償のものというわけじゃなくて、そこにそれとは別の意図を実現させるという企みがおそらくあり、そのようにしてここに見られる文字(漢字)と絵との合作が今回の作品で試みられているように思う。
 漢字の成り立ちなんかについてはまったく知識がないんで正確なことは何一つ言えないけれど、象形文字というのか表意文字というのか、ともかく漢字みたい文字記号の始まりは絵だとか何かの形の刻まれた(文字以前の)しるしだったとして、それが今あるようなわりあいしっかりしたシステムのもとに、個々の文字の形態としての内部での筆線の(表記の)揺れの幅なんかがそれなりに安定したかたちでおさまるまでには、歴史的な合意を形成する経緯のうえで、かなり不安定な時間をくぐり抜けてきた過程があったんじゃないだろうか(まったくの憶測だけど)。パッと思いつく感じでは、意味論的な記号と指示物との関係における写像にまつわる場所の取り合いとか配分の混乱が少なからず発生したのではないかとも思えるし、記号の伝承だとか正統性に関するような語用論的なイレギュラーに触れる問題もたくさん存在したんじゃないかと想像する。勉強不足で何一つ確かなことはわからないからそこらへんはスルーせざるをえないけど、ともかく、高野さんが「鳥取のふとん」という作品で試みていることとは、絵から始まって文字(漢字)へと落ち着く歴史的な記号の完成への推移を逆行させて、今では定まってしまっている文字のかたちの中から歴史的にありえたかもしれない別の絵、別の文脈における図形を探り当てようとする想像的な遡行の営みであると言ってもいいのかもしれない。もちろん作品から受ける印象にはそんないかめしさとか物々しい感じなんかはいっさいないんだけれど、その軽やかに戯れるような線のもろもろの動きに触れて、視覚はそこに、何か開放的な新鮮さに脈打つある謎めいた生動を感じないわけにもいかないだろう。
 連載一回目の「謎」では柴田元幸さんの訳したテキストと高野さんの絵が交互に混じりあってページごとに配分されており、二回目の「マッチ売りの少女」ではテキストが作品の前半を占め、絵は後半にまとめられていた。今回の「鳥取のふとん」では、高野さんの絵が前半を占め、テキストは後半という全体の構成になっている。作品の中で実現されている文字(漢字=二次的なもの)から絵(一次的なもの)への遡行という発生的な順序の逆転が、作品全体の構成的な秩序(テキストに先行する絵という構成)に準じていると言ってもいいかもしれない。どう解釈していいのかわからないけど、そこにまったくの偶然をしか見ないことは難しい。
 作家の意図みたいなものは、作品からそれを何か積極的なものとして読み取ることなどは原理的に不可能だろうけど(不可能と言うより、可能/不可能とかいう次元の問題とはまったく関係の無い嘘っぱちの設問だろうけど)、作家のことばじゃなくて作品が形式を通じて語ることばのその執拗さ、音調や感触みたいな触知可能だけど言表しがたい実在の回帰的なありかたに打たれて、それを受け手の思考にうがたれた(プンクトゥムみたいな)痕跡として何かを語ることはできるだろう。ラフカディオ・ハーンの「鳥取のふとん」という言語作品が高野文子の「鳥取のふとん」として(反-逐語的かつ反-意訳的に)翻訳されるにあたって、なんでそこで原稿用紙のマス目だとか文字の主題が問題になるのかは、作家の意図したことの解明という次元じゃこれをまったく解決することはできないように思うけど、それらが作家のかたちづくる個々の作品においてどんなふうに合流していくのかを粗描することくらいは、根気強く作品の示すところに従っていけば、誰にとってすら、これは可能なんじゃないだろうか。