『ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション』

ライアン・ラーキン 路上に咲いたアニメーション<コレクターズ・エディション> [DVD]
 前から気になってたアニメーション作家の作品集。どの短篇もおもしろい。ノーマン・マクラレンのもとでレッスンを受けていた時期の習作にあたるという「シティスケープ」(66年)とか処女作である「シランクス」(65年)なんかでは、描かれる対象の(アニメーションに固有の)動きというよりも、木炭によるドローイングの黒さと背景となる紙の白さとが互いの領分をゆっくり反転させながら戯れていくような、いわば「だまし絵」にも似た印象が強い。運動の感覚というより、認知的な揺れ動きやそれがひき起こす驚きを特別に目だけが楽しむことができる、というような感じ。「ウォーキング」とか「ストリート・ミュージック」なんかには、それらとは質的にまったく異なる経験があるように思う。「ウォーキング」(68年)では冒頭で克明に描かれた人物や街頭の様子のスケッチから、人がそこで動き始め、音楽の進行につれてしだいに抽象的な影絵みたいなものの運動にまでいたる展開が5分くらいにわたって描かれることになるけれど、物的な水準では水彩絵の具の染みにしかすぎない紙の上のこの滲みの推移は、そこである人物たちが歩きまわり、あるいは画面を縦横無尽に踊ったり走り出したりしている運動の軌跡として以外には了解できない。アニメーションみたいな作品の実存は疑うまでもなく視覚に最大限依存した経験であるだろうけど、それが目の経験するところで止まってしまったのでは何ほどのものでもなくて、目を手放さずに携えつつ、身体の方にまで貪欲に伸びてそこでの運動や記憶にまでじかに達していなければ、その経験はそれの可能的な実存を十全に開いたことにはならない、ということなんじゃないかと思う。画面の中での色とりどりの抽象的な滲みの運動にすぎないものが、しかし、であるがゆえにいっそう、歩いたり走ったりという人間の身体が空間に描くもろもろの動きの(理念としてのそれとはまったく異なる)雑駁さや奔放さなんかを実現しているように感じる。デッサンのカートゥーン的な甘さだとか、人の脚はあんなふうに上げ下げされるものなんだろうか、とかいろいろつっこみは入るのかもしんないけど、作家にとってはそんなことは二の次だったのかもしれない。目が捉えて身体がキャッチしたある生動の感触を、もう一度目の前に実現する、投げ返す、おのれの神経や身体を外の世界との間で作動する循環の加速器みたいなものに作り変える、そんなことが達成されようとしていたのかもしれない。
 ギリシャ神話に題材を取ってる「シランクス」は別かもしれないけど、「ウォーキング」でも「ストリート・ミュージック」でも、作品内部にパロールによって、パロールとして見出されるべき緊密な構成の水準みたいなものがほとんど見当たらない作りになってる。人の形象だとか動物群、名前も持たない奇妙な生き物たちがひたすら運動していく、そのざわざわとした無軌道にも見える過程だけが次から次へ絶え間なく流れていく。人物や怪物たちの運動がどこから開始されてどこへと辿り着くか、という場合のその「どこ」だとか、それらが何のために動き何によって動くのか、という場合のその「何」というような、そこでの運動に時間と空間の中でしかるべき位置を定めたり合理的な判定を下したりすることを可能にするような大きな意味でのパロールによる後ろ盾をまったく欠いたまま、刻一刻と変わりつづけていく形態の伸縮や移動だけが描写によって繋ぎとめられようとしているようにも見える。「ウォーキング」に描かれる一人ひとりの人物たちがフレームの外からやって来て、束の間画面内に捉えられ、再びすみやかにフレームの外へと歩き去っていきながら、そのようにして出現と退去の交代するテンポを集団において実現していたとすれば、それとよく似た呼吸で「ストリート・ミュージック」(72年)に描かれる対象の形態における変化は、人物や事物のよく見慣れた姿勢や形から誰も見たことのない変容の過程をくぐり抜けて次の形態へといたるサイクルを繰り返していく。「ウォーキング」における出現と退出のリズムは、「ストリート・ミュージック」におけるアモルファスなものと定形のものとの交代のリズムとして引き継がれているようにも見える。それらの運動の絶え間ない継続をモニターのこちら側から時おり眺めることはとても愉快なことだし、そこで描かれた存在のそのような運動は(たぶん、大げさな話でもなんでもなく)宇宙誌的なできごとのひとかけらを垣間見させてくれるとすら言ってかまわないだろうけれど、一人の人間がこのような経験を現実において見つめつづける、60年余りの生を生きつづけるということには、そこにいわく言いがたい、途方もなく過大な疲弊の感覚をともなわずにはおかないものだったろう、とも思う。DVDに付いてくる解説の文章で山村浩二さんが紹介しているけれど、作家の最後のことばは、「私の最後の日まで、休んで、休んで、休んで、休んで、ただ休息したい」というものだったらしい。そこのところはちょっと何か思わずにはおれない気持ちがするし、それは最後まで不始末なままでありつづけるだろうとも感じる。