ジャン・ジュネ『女中たち バルコン』

 ジュネの作品を読むのは初めて。いつか読みたい作家として気にかけつつそのままだったんだけど、先月アマゾンのオススメをチェックしてたら手に取りやすい値段で新しく刊行されてる文庫が見つかったんで、「アラ、いいですね」ってことで即注文。品物が届いてさっそくページをはぐってみたら、小説じゃなくてこれが戯曲だった。なんにも考えずにポチっと決定ボタン押してたもんだからこういうびっくりするようなことがたまに起こる。一緒に注文してたデュラスの文庫も戯曲だったんで(これはあらかじめ承知してた)、戯曲がいっぺんに2冊手元にあることになった。戯曲は戯曲で、これももう指で数えられるほどしか接したことがないジャンル。ブレヒトとシラーをたぶん一作ずつ、むかーし読んで、内容もすっかり忘れてしまってる。フローベールの『聖アントワヌの誘惑』は感想を記事にして残さなかったけど去年読んでいる。というわけで、おっかなびっくり感想を残しておく。(実を言うと、演劇というものじたいをまともに観たことがないことは内緒だ)。
 
 「女中たち」も「バルコン」も物語の大枠としては、革命劇みたいなものとして読まれることになるのかなあと思った。「バルコン」の物語の背景は民衆による叛乱のざわめきによってくっきりと隈取りされてるし、室内劇である「女中たち」のほうも、話の骨子として、二人の「女中たち」による主人(「奥様」)殺しの物語をそこに読むことが求められているみたいだ。正確には、革命の物語じゃなく、「失敗した」革命の過程がそこに読まれるということかもしれない。「女中たち」における「奥様」に対する姉妹の殺害計画は最終的に挫折して、そこで企図された罪に対する罰のようにして謀反者である妹が毒をあおる結果に終わる。「バルコン」も同様に、叛乱軍の指導者が民衆の敗北を認めたうえで、ある種の偽装の身振りのもとに自裁と等価のしぐさ(自己去勢)が行われる場面を作品の末尾に導いている。二つの作品ともに、主題としての「王殺しの不可能性」(すが秀実)という事態を確認することができる。革命の失敗した像を描くと同時に、しかし作品はまた同じ筆の流れの中で、ある種の反-革命として結実するひとつの成果をも描いているだろう。「何も変えないために全てを変える」という綱領として公式化できるその保守的革命の完成への経緯は、叛乱や主人殺しの失敗の過程と同じ流れの中で、ただし異なる帰着点に辿りつくセリーを通過していく。「女中たち」での「旦那様」は徒刑場へと至る道行きから引き返して再び屋敷へと帰還することになるし、姉妹の手による毒殺をかろうじてまぬかれた「奥様」もまたそれまで同様何も変わることなく家政における女王の身分を維持していくことが可能となるだろう。「バルコン」はその点につき、「女中たち」よりもさらに細かな脈絡をなぞっていくようにも思える。革命の失敗、ないし反-革命の完成の物語としての「バルコン」においては、「(女)王殺し」の目標はそれそのものとしては達成されている。叛乱軍の爆破によって瓦礫の下に埋まった「女王陛下」は≪少々焦げ目がついて≫しまっており、≪煮たり焼いたり≫されてすでに≪人様には見せられ≫ない状態になってしまっている。もはや王宮は壊滅しており、「総司令官」も「検事総長」も「大司教」も殺されるか気がふれるかしている様子が、「女王」の「使者」の口を通じて報告される。客観的な状況の推移から言えば叛乱はその目指すところを余すところなく達成しているように見えるし、革命はそこで既成の権力と法を転覆しつくしているようにも見えるけれど、作品の語ることばに耳を傾けると、事態がそれとは正反対の成果を結果させた事実を聞き取らないわけにはいかない。負けて死んでいくことになるのは叛乱の指導者であるロジェであるし、パレードの中で凱歌をあげることになるのは「女王」であり、「将軍」、「裁判官」、「司教」といった「お偉方」の三人だ。戦勝を言祝ぐことになるこれらの勝利者たちは、叛乱がもたらした瓦礫の下に埋もれる同じ名をもつ人物たちとは、形質的な次元(ないし、基体?となるような人格性とか物質的な同一性の次元)においてはそれぞれ明確に異なる人物たちであることはわかっている。劇の主要な舞台となる「幻想館」(いわゆる「コスプレ」を売り物にする性風俗店)の女衒であるイルマが扮する「女王」とは、王宮の瓦礫の下で黒焦げになった「女王陛下」のポジティブな陰画(ネガ)のような存在であるし、「お偉方」三人もその出自に関しては同様の訳合いを探り当てることができるだろう(「総司令官」-「将軍」、「検事総長」-「裁判官」、「大司教」-「司教」)。叛乱が単に失敗に終わるだけではなく、あまつさえ反-革命的な組み込みの再強化をさえも実現してしまうという逆説は、この陰画としてのイメージの水準における必然的な帰結であるようにも思われる。
 さっきは「革命劇」という物語の大きな枠組みからくぐってきた二つの作品への侵入を、今度は劇の舞台の上に見えるであろうものを頼りにして、もう一度違うかたちで繰り返してみる。そこに可視的なものとして見る者の視線を捉えるものは、幾つかの物品たちがかたちづくる重なり合いであり、それらの類似した形象の反復的な現われだ。冒頭のト書きが指示することばによれば、舞台の上でまず観客の視線が捉え、あるいは戯曲のことばを読み始める者が最初に出会う視覚的な印象の像とは、「女中たち」においては、椅子の上に置かれた、女優が身にまとっている≪小間使いの着る短い黒いワンピース≫とはもう一着別の≪短い黒い服と、麻の黒い靴下と、踵の低い黒い靴≫であることが確認できる。「バルコン」の冒頭においては、「女中たち」におけるこの椅子と椅子の上に置かれた衣装とは、≪黄色い肘掛椅子一脚≫とそこに置かれた≪黒いズボンと、ワイシャツと背広≫とに変奏されている。この類似したイメージの反復とともに、各作品はその傍らにいる人物たちを、衣裳や装飾品といった人が身にまとうことのできる物品への執着という態度のもとに照らし出そうとしているだろう。一方には「司教」のコスチュームをまとった人物が口にする「司教帽(ミトラ)」や「袈裟」への多分に性的な潤色のほどこされた賛仰のパロールがあり、他方には「女中たち」の身分の社会的な類比物として機能し始める≪ゴムの手袋≫をあいだに挟んだ姉妹二人の罵倒のことばが、劇の最初の光景としてイメージの場に踊り始めることになる。これはその意味で、そこでこれから演じられることになる劇が「衣裳」の劇となるであろうことをあらかじめ告知しており、観客や読み手が劇の語りだすところのものを受け止めることを可能にするしるしとして作用しているだろう。
 「女中たち」の物語は交換される「衣裳」の劇としてこれを辿っていくことができるかもしれない。それが仮説であることをあらかじめ強調したうえで、この「衣裳」の動きがかたちづくる流れの、幾つかの可能な連関を素描してみることが試みられてもかまわないだろう。主人の留守をあずかる屋敷の部屋の内部で女中である二人の姉妹(ソランジュとクレール)によって毎晩のように執り行われる「奥様と女中ごっこ」の場においては、不在の本体に成り代わって別の一人がその空位となった場所を順繰りに埋める運動(ソランジュ→クレール、クレール→奥様)が見いだされると同時に、その人物間での成り代わりとは逆の向きに位置を変えていく「衣裳」の移動をも確認することができるだろう。(「奥様」の「赤いドレス」がクレールへと移動する)。人物間での場所の移動は衣裳の移動の流れと逆行している、というよりも、むしろこの両セリーの運動は、同じ進行方向に、ただし異なるリズム、異なるギア比の統御のもとで交差的なジグザグの軌跡を描いて進んでいくものとして見るほうが正しいかもしれない。衣裳のサイクルを構成する諸項目は「白いドレス」→「赤いドレス」→「毛皮のコート(狐のコート)」という順でセリー内を循環していく。他方で、人物が取り交わす「ごっこ遊び」のリズムはソランジュとクレールの二者間で反復されており、この両セリーの項目における数の差が、重なり合う流れの中にリズムの変調とアクセントの強弱を生み出していっているだろう。昨日の衣裳は今日の「奥様」役に、今日の衣裳は明日の「奥様」役に、明日の衣裳は今日の「奥様」役に。これがサイクルの片道が描く割り振りの図表だ。サイクルを完成させる残りの復路は同じ割り振りのもとで、どちらか一方のセリーの項目の順番を正確に逆回転させればいい。どっちの項目を逆転させるかはサイクル全体の完成にとって無関与的であるけれど、それは必ずどちらか一方のみで実現されなきゃならない。「白いドレス」→「赤いドレス」→「毛皮のコート」の流れが「毛皮のコート」→「赤いドレス」→「白いドレス」となるか、またはクレール→ソランジュがソランジュ→クレールになるかするとき、「奥様と女中ごっこ」のサイクルが完全に一巡することになる。反転が同時に実現されてしまう場合にはギアの転換が生じることなく、反復というイメージの運動が現実の歯車の固い内部に食い込んでしまって、動きは致命的に停止してしまうことになるだろう。その意味で、「ごっこ遊び」の最中における「奥様」の不意の帰宅は、ソランジュとクレールにとって危険この上ないものとなる可能性をはらんでいる。それは衣裳の「3」と代役の「2」とが起動させる差異の「ごっこ遊び」のメカニズムを、欠けていた「1」として現れる、不在のものの埋め合わせ的な回帰というかたちで、決定的に失調させずにはおかないだろうし、事態がそこまで行きつかなくても、描かれていた軌跡のリズムやサイクルの循環を修復困難なまでに崩してしまう危険性をはらんだものとして女中たちに経験されるだろう(帰宅した「奥様」によって配分された「ごっこ遊び」の明日の日程の継続可能性が、「旦那様」の無事を知らされ急いで再び外出していく「奥様」の、出掛けのついでといったかたちでの「毛皮のコート」(=明日の「奥様」役のまとうはずの衣裳)のソランジュからの取り上げによって、修繕不可能なまでに綻んでしまったということ)。事態のこの水準での叛乱(「奥様」の殺害計画)はだから、不在であるけれど同時に余分でもあるというこのきわめて特異な性格をもつ「1」としての存在の除去を目指そうとするはずのものだけれど、この取り消しの可能性が伸びていこうとする線が女中たちの意図や姿見に映る意識的な自身の姿などを通り過ぎてはるかに遠く、潜在的に達しようとするところとは、衣裳の遊戯のより倍化された肯定であるようにも思われる。つまり、それが衣裳と仮装による限定された堂々巡りであることを無化させるほどに衣装戸棚の中に膨れ上がろうとするイメージの無数の反映を手に入れること、これなんじゃないだろうか。女中たちの叛乱が彼女たちの意識において決定的な失敗として認められてしまったとき、事態も後追いして、その通りのものとして帰着するしかない。衣裳の運動はそこに終息し、「菩提樹花のお茶」に混ぜられた睡眠薬が致命的な毒物としてクレールの身体と混じりあう。衣裳=イメージに対して、物質が物言わぬ勝利をおさめる(姉妹やロジェの錯乱において口を開き、視線を投げかけ始める周囲の事物を思い出すこと)。
 「女中たち」における衣裳は、姉妹二人によって秘かに行われる毎晩の「手淫」の、その反復される儀式に捧げられるべき奉納物のようなものとして機能している。「バルコン」におけるそれはもっと露骨に、性的ファンタスムの中でのフェティシズムにおける対象さながらの働きを示しうるものとして劇中で描かれる。精神分析の理論に関してはまったくと言っていいほど何も知らないのでその点については口を噤まざるをえないけれど、ともかく指摘できるのは、そこでの衣裳がある不在の対象をその存在と再現性の水準で肩代わりし、同時にそれらは、代理されたその対象を不在のままにとめおく欲望の圧力的な関係のうちに現れるということだ。『聖アントワヌの誘惑』において、聖人のイメージに現れる神話的な対象群が描く欲望の一連の絵巻物をここで思い出してもいいだろう。ポジティブな陰画としての「バルコン」の「お偉方」たちが、ポジとして彼らに参照され欲望される人物たちとは同時に舞台上に立つことができないのは、そのような訳合いからだろうし、このポジとしての人物たちが劇の進行の過程で死者の役回りを受け持つことになる点も必然的な理由がある。衣裳の下には、象られ、正確に人物の形象の外周に沿って輪郭づけられた無があると言ってかまわないだろう。「司教」や「将軍」たちの衣裳は同じ名で呼ばれる人物たちの死を隠しているし、そこに限定づけられた彼らの死を見えるものの水準でクリップし留めおいているはずだ。コスチューム・プレイにおける性愛的なよそおいはその下に死を抱えこんでいると言える。同じことは、「女王」や「お偉方」にだけではなく、劇のなかで彼らと敵対する叛乱兵側の人物たちにも当てはまる。「革命の紋章」として祭り上げられ、できごとの推移の中で戦死を宿命づけられるシャンタンの身体からは、そこから衣裳と同等の剥離可能なイメージが分泌され、過去の歴史において参照可能な先行するイメージ(戦う聖女たちの似姿)と連合しつつ、無数の革命の諸イメージが飛び交う高所に舞い上がり、聖別済みの戦士として天上の殿堂へと流れこんでいく。
 衣裳が見えるかたちでイメージを象るこの水準ですべての戦いは戦われるし、社会的、政治的、性的なもののすべては、この水準に相互に短絡可能な結節点を見出している。だから、叛乱の結果がその正反対のものの成果として横領されてしまうことにはちゃんとした理由があることになる。叛乱する者も、その叛乱の威力を受ける者も、両者は歴史が産出するイメージの連鎖という同じ一つのセリーの上を移動させられていることになる。そこには、衣裳そのものでもある身体の物質的な領域から剥がれたイメージの無数の切片が、革命の場の上空に隙間なく旋回しつづけている、といった印象がある。ともあれ、「(女)王殺し」が必ず失敗に終わることの理由とは、ジュネのこの二篇の戯曲が描くイメージの無疵性、展性、可塑性といった諸特性の素描と無縁のものではないはずだ。そのイメージの表面のはらむ到達不能性に対して、あたかも風船の膜がその内部に抱えこんでいる空虚さをゴム抜きに直接手で触れようとでも望むかのように、無底に対する侵犯の身振りを開始する者こそが、「女中たち」のソランジュとクレールであり、「バルコン」のロジェでもあるということなのだろう。敗北後のロジェの向かう行き先はイルマの「幻想館」だ。無数に存在する「お客たちのための部屋」のうちの奥座敷のひとつが、「葬儀の間」、「陵の間」と名づけられていることは象徴的だろう。その井戸のようとも塔のようとも形容される、諸イメージのかたちづくる入れ子状の構成のもっとも奥まった場所にあるとされる最後の(あるいは、最初の、起源の)イメージの部屋で、ロジェの自己に対する去勢が行われる。自死と等しいその抹消の身振りのうちに、男は血塗れのカーペットの上で、起源においてイメージがそこから産出されることになったであろう最初の光景を、物質としてのペニスを裂く切り口に実現しようとする。イメージの専制的な閉域から逃れ出るために物質的な手触りのなかにその出口を求めようとするこのロジェの場合は、クレールの自死の場合との近縁性を指摘することができる。ただしそこには、見過ごしえないちょっとの違いがあるようにも思う。ロジェのもろにエディプス的な自己処罰の方式に対して、クレールの服毒がある。あるいは、「バルコン」において「女王陛下」の死=退隠がどのように描かれていたか。「お使者」による描写のことばをここで簡単に要約すれば、それはつまり、焼死だ。ソランジュとクレールが「女中たちによる叛乱」において最終的に目指したところは(クレールによる絞殺の試みの失敗が先にあったとしても)、「菩提樹花のお茶」による女王=「奥様」の毒殺だった。その殺害方式の選択にまったく意義がないとは言えないかもしれない。毒殺も焼死も、それは前エディプスにおける幼児の特徴的な攻撃性をしるしづけるものとして、たとえばメラニー・クラインがその著作で描いているところのものだったことを思い出してみよう。そして、何故これらの叛乱の筋立てが「女王殺し」として企てられてあり、「王殺し」としては当面見られることができないのか、という疑問も再確認しておこう。ロジェの場合との、ちょっとの、しかし決定的なものとなるかもしれない違いが、このような細部に見出すことができるかもしれない。今のところ仮説以前のたんなる思いつきにすぎないこのちょっとの違いから、たとえばロジェが体現するようなエディプス的なファルスの消尽に対する、別のファルスの使用法を、ジュネの作品から発見することができるかもしれない。その時には、上で見てきたような一連のイメージの読み取りをも、そこにまったく新たに変更する必要が生れてくるのかもしれない。