クリストフ・シャブテ『ひとりぼっち』

ひとりぼっち (BDコレクション)
 国書刊行会「BDコレクション」の二冊目。先月の『イビクス』が素晴らしかったんで取りあえずこのシリーズの支援ということで購入してみたんだけど、何の心配も必要ないくらいにおもしろい作品だった(付録のリーフレットで予告されてる三回目の配本が気になってて、実はこの『ひとりぼっち』のほうはあまり期待してなかったんだけど)。
 醜い容姿で生れてきたことが原因で、灯台守を務める親の配慮により、灯台の構えられた海上の小さな絶島で50年間、そこから一度も外へ出たこともないし、ほかの誰とも顔を合わせずに暮らしている「ひとりぼっち」とあだ名される男。島を訪れるのは15年前に亡くなった男の父との約束で定期的に食料を届ける漁船の船長だけであり、鉢で飼っている一匹の小魚だけが「ひとりぼっち」の唯一の友だちという孤独のうちにある。釣り場として足を運ぶ狭い桟橋と灯台の中にもうけられた小さな私室だけが彼の全世界であり、一日はそこで始まりそこで暮れる。50年の月日がそのように暮らされる。部屋にあるめぼしい調度品は、窓辺に据えられた小さな机と一脚の椅子だけだ。机の上には使い古されてぼろぼろになった一冊の辞書が乗っている。孤独な「ひとりぼっち」を慰める唯一の気晴らしと楽しみがこの辞書を使った遊びとして繰り返される。両手に挟んで目の前に掲げた辞書を机の上に落とす。辞書は開く。目を閉じてページの上に指を差し、無作為に項目を選ぶ。選ばれた見出しとその短い説明文が彼のイメージの中で花開く。(子どものころ似たような遊びをしていたことを思い出した。「ひとりぼっち」氏と同じように辞書を適当に開いて選んだ単語の説明の文章の中から、目についた任意の単語を選んでその項目に進む。その項目の説明文からさらにまた任意に単語を選んで…、という暇つぶしをえんえんしていた記憶がある。暇すぎる)。
 生れてから一度も、陸の土を踏んだこともなければ両親以外の他人と接したこともない「ひとりぼっち」のイメージの世界では、本来的に他者のものである語や語の指し示すイメージは、奇妙な、異郷的な変形をこうむったかたちでしかそこでの飛翔を開始しない。「オーボエ」や「ホルン」といった楽器のイメージは調子外れのものに変形され、「アームストロング」は月の上でぽつんと膝を抱える。「キノコ」は人の頭に生えるものだし、「足脚学」は研究者たちを滑稽な姿で床の上に這いつくばらせることになる。辞書のことばを通じて他者の世界へと抜け出そうとする「ひとりぼっち」の言語活動は、語の意味は語の言説としての連なりにしか人を導かないし、その言説はと言えば、今度は、語によるイメージの名づけにしか人を送り返さないという終わりのないタブロー上での往復運動を遮断するかぎりで、その途上に、狂い咲きにも似たイメージによる奇形の花々を咲かせることになる。
 「ひとりぼっち」の辞書遊びは他者や世界を希求する愛による祈りにも似た色合いを帯びていると言えるし、愛やイメージといったものがすでにそこには存在しない対象の代理物として灯台といったものを象徴的にうちたて(仕立て上げ)、そのファルスとしての働きこそがそこでの辞書遊び=言語活動を条件づけ、動機づけているという見方も、確かに可能なのかもしれない。その場合には、「ひとりぼっち」の行う辞書遊びのいっさいが隠喩的な配慮のもとにとりまとめられることになるだろう。すべてのイメージはあらかじめ除去されてしまった愛の対象や存在といったものに対する代償の結果として描かれることになるし、すべてのイメージの裏面には無や不在がぴったりと貼りついていることになる。すべてはある存在(の無)と引き換えにされた隠喩の形象として現れる。辞書遊びによって結ばれる個々のイメージはもちろんのこと、金魚鉢に囲われた小魚の境遇も、海面に屹立する灯台の存在も、窓辺に飾られた漂流物の数々すらも、つまりは欲望の不在の対象を隠喩的に代表象する疑似餌みたいなものになるだろう。こういう解釈の仕方は、作品には直接的にはけっして描くことのできない表象不可能な対象性がその核心として必ずひとつは存在する(無が在る)という条件を前提にしているのだろう。そこでは、作品を描くこととは、そのようなある種の存在論的なもどかしさや無いものねだりを弾みにして、ことばやイメージを同心円状の配置に組織する技術となるようにも思う。
 他方でそのような作品の見方に対して、同じ愛と代償性との関係がかたちづくる構図を読み取りながら、それを隠喩のもとに一括してとりまとめるのではなくて、たとえばこれを、イメージの運動性への雑多な糧のようなものとして視界に迎え入れる読み方もあるように思う。そのような読み方においては、砕け散った愛やあらかじめ失われた記憶といった否定性のモメントにおいて男の営みを動機づけるいわれはどこにもないし、辞書遊びの行為にある種の代償的な性格がつきまとうにしても、それは起源において存在がこうむった取り返しのつかない不在や抹消といった事態を埋め合わせるための遅すぎる処置などと似たところはいっさいなく、単純に(しかし厳然たる事実として)、現在男のこうむっている拘禁状況から抜け出すための、出口を探し求める、切迫した、しかしユーモアにも満ちたイメージの疾走の痕跡を跡づけるものとしてあるだろう。「ひとりぼっち」の辞書遊びの中で「メタファー」の項目が選び出される。すると例示された文章のとおり、男の描くイメージの中に、文字どおり「ボールの雨」が辺り一帯に降り始め、人々の肩を打つ。作品内の事実として、男はメタファーというものを理解できない。言語論的にも正しいこの愚かしさでもって、イメージは隠喩を否定するのではなく(否定という肯定の罠がある)、いわば骨抜きにかかっている。無に対しては、端的な現前を対置している。愛もまた、存在の内部に立坑のように食いこんで、それが故にますます外部に偽の対象のイメージ群を無限に呼び寄せることになるというわけではなくて、その一枚いちまいが瞳に捉えられるごとにその都度、男をこことは異なる場所へと誘ってやまない、現前する「せかいじゅうのしゃしん」として、イメージの無数の切片をかたちづくる。そう了解するかぎりで、この物語の結末をほんとうに祝福することができるんじゃないだろうか。灯台からしだいに離れていったとしても、それがファルスとして機能するものならば、どこへ行こうとそれはかたちを変えて「ひとりぼっち」の芯に忌まわしい棘として食いこみつづけるだろう。愛がそのようなものでないならば、金輪際一回かぎりの無数の愛の切片がその場その場で男を衝き動かしつづけるならば、たとえ再び孤立することがあったとしても、生を貫徹していき、再度、何度でも、そことは異なるどこかへと赴いていくことは可能になるだろう。そんなふうに読んだ。