高野文子「マッチ売りの少女」

 『モンキービジネスvol.11』に掲載の高野文子の連載二回目。以下メモ。
 ページを開いて画面をパッと見た印象としては、これはもう挿絵ともマンガとも言いがたい、何か幾何学の図形かある種の立体物の展開図のような、とても奇異な眺めとして目に飛びこんでくる。そして注意をこらしてページの絵の連なりを眺めていくと、確かにある意味ではそのようなものとして作品が描かれていることに気づく。図形の基本的な単位となる形態は、正六角形の平面図か、またはサイコロみたいな立方体を斜め45度の角度から俯瞰視点で眺めた立体図として描かれており、つまり眺めをどっちの場合に解釈しても、紙に描かれた平面の図形をそれとして見れば、同じ形が現わされている。この正六角形というか立方体の立面図は図形の枠組みの最小単位になっており、これが画面の中で縦に連ねられていき、そうしてできる短冊状の細長い帯はページの横方向に沿って並べられていく。個々の正六角形どうしは上下の図形の下端と上端の頂点にあたる角で相互に接している場合もあれば、それよりはしばしば、お互いに近接している末端左右のいずれかの辺で接するか、または、図形内部に引かれうる三本の対角線(斜め45度でたすきがけされる十字の線とその交点を垂直に貫く縦線)のどれかを相互の境界として分けあって(図形どうし混じりあって)、繋がりをかたちづくる。個々の図形と図形どうしの繋がりの基本的なかたちはそのようなものだけど、そうではない場合もたくさんある。物語の状況によって正六角形に対して扇状の円弧の部分がかぶさることもあるし、同じ平面図が立方体の小箱のようなものとしての側面を強調される場合には、折り紙かペーパークラフトのようにそれらのパーツの展開された様子が描かれる。そうなった場合も図形は正六角形か立方体としてかたちづくられた基本的な構成の規則をけっしてくずさないようきわめて律儀に展開される。フリーハンドでざっくり描かれてはいるものの、その基本形の展開が作るはずの角度や辺の長さ、小箱の容積やそれらが相互に干渉する際の位置はとても厳密に計算されている。短冊状に縦方向に連なったこれらの帯はおおむね上から下へと垂直に眺められることになるけれど、そこにも、隣り合う二本の短冊どうしを左右交互に見なければならないような例外がある。または、この上から下へと画面を見取る基本的な流れを、下から上へと正反対に逆行させなければならない場合もある。こういうような自在なコマ(というか、フレームと言ったほうがいいような気がするけど)の流れやその個別の展開をつうじて、「マッチ売りの少女」の物語が絵の中で綴られていっている。
 この作品においては、物語に描かれる少女のしぐさやそこでの事物の動きといったフレーム内部に収められるもろもろの運動の表現とフレームそのものの運動とがかんたんには分離できない。描写される内容面とその描写を可能にしている形式面とが一体化していると言っていい。絵と枠がお互いの領分を越えて交流していると言ってもいいし、条件づけられるものとその条件とが混じりあってしまっていると言ってもいい。仮に、理念型として、描写される対象や運動が三つのタイプに分けられるとしたら、フレームの性質もまた、ここではそれに応じて三つのタイプに分けることができる。これらのうち最初のタイプのものは、静止画みたいに枠とそこに盛りこまれる絵とが比較的分離しやすくて、お互いの領分への嵌まりこみの度合いが低い。紙面に並列しているフレームの短冊状の帯を単位に見立て、指示の目安としてそこに順序にそって番号を振っていき、それぞれの帯をイニシャルBのもとにまとめていくと、6ページの作品にだいたいB.1からB.22まで、計22本の帯を数えることができる。(帯の数え方にはいろいろあると思うけど、ここでは仮に分かりやすくそう数えておく)。絵とフレームとの関係の最初のタイプの見やすい実例は、B.1やB.9に見られる、物語の舞台となる街路の場景の描写だろう。六角形のフレームの内部を左右二本の対称的な対角線が区切って、その交点が遠近法の消失点の役割を果たし、絵の中の街並みに奥行きの錯覚を与えている。この絵にもフレームの形態的な性質(正六角形)が描かれる絵の次元に大きく影響を与えていることは間違いないけれど、前後のコマから切り離してフレーム単体でこれを眺めるとき、枠と内容との関係は比較的静態的で、どこで何が起こっているのかという状況の分節化もしやすい。フレームと絵とは、これらを別個のものとして読み取ることができるし、相互の関係も強い存在としてはまだ完全には浮かびきってはいない。このタイプの描写は、基本的には、シークエンスが切りかわってあらたな場景が描かれるたびに、その最初のフレームが依拠していなければならない基礎的な準拠枠として機能しているだろう。何かがそこで動き出し、その様子を描くことが可能になるには、最初の枠内にあるその対象は、いかにその時点での一枠単体での明瞭な分節化が困難であろうと、まずは額縁の中の一個の絵柄として見られることをもとめるだろうからだ。
 フレームと描写との関係で二番目に指摘できるタイプのものは、フレーム間での移動が指示される場合やそれらの位置関係、そこでの相対的な大きさの伸縮といった、フレームの属性的な変化が同時に対象における動きの感覚をもたらすといった性質のものだ。すでに作品冒頭のB.1の帯に見ることができた街並みの描写では、遠近法的な手法によって眺められた主観視点の構図の連続が、たどたどしく街路を辿る少女の頼りない足並みを反映するかのように、そこに不規則なリズムにおける配置とショット全体を締めくくる最後のコマの拡大を呼びこみ、この場面での少女の身体とその動きの感覚をフレームの関係性のうちに捉えているだろう。B.9に見ることができる街路に降りしきる雪の表現でも、正六角形の三つ一組のブロックを辺を違えて交互に斜めに落としていくことにより、少女の頭上に降り積もっていく雪の運動をフレームの移動の過程に収めている。B.10やB.14に描かれるマッチ棒を壁に擦る少女の手のしぐさだとか、B.19に見られる食卓の上の皿に盛られたご馳走が食べられながらしだいに減っていくさまを描くくだりの一部も、同様のフレームの連続的な変化という構図のもとで、動きやできごとの時間的な推移を示しているだろう。B.6と7が描く少女の動作とできごとの経緯は、おそらく縦に落ちていく二本の帯をジグザグに、左右交互に辿りながら下降していくことで、売り子のしぐさと客からのにべもない拒絶という物語の推移を表現しているだろう。フレーム間での横方向への反復がこのシーンを活気づけている。作品全体を締めくくるB.21と22の少女の昇天を描く場面では、マンガを読む際に慣習的な下降する読みの方向がページの最下部(地)に至って反転し、(第一のタイプの動きの表現に属すべき)コマ内部の絵柄の回転運動をもともないつつ、天上に向かうゆっくりした上昇運動へとフレームの推移の過程で変化していくさまが描かれる。個々のフレームを連続的に接続していくこのタイプの描写は、第一のタイプの描写を全面的に含みこみつつ、作品のほぼすべてのフレームを包みこんでいる。ただしこれは、フレーム(の連続)によって(個別の)フレームをまとめるというその働き独自のメタな限界によって、お互いに異なるショットどうしの間に目に見えない断続的な隙間を作り出す。ショットの隙間に開いたこの不可視の空隙によって第一のタイプの描写の(再)始動が可能にもなるけれど、基本的には、この第二のタイプのフレームの運動の役割とは、終局的には描写を切断し、そこで描かれているものの動きや変化を終息に向かって押し進めていくことのように思われる。
 第三のタイプのフレームと描写の関係は、第一と第二の関係の複合的な特徴をあわせもっているようにも見える。ただし、B.9に見ることができるある一コマの描写だけが全6ページの作品の中での、その唯一の例を示している。この描写の含まれる帯が、全体としては街路に振る雪の垂直的な降下運動を描いているものだという点はさっきふれた。降雪の描写はページの最下部で、裸足で雪を踏みしめる少女の足取りの連なりに辿りつき、幾何学模様の厳密な規則に則ってこの足跡を中途で斜め上方に少しだけ屈折させ、帯のふもとに疲れ切った少女をへたりこむようにしゃがませる。少女の頭上にある街路の角をなす家の壁の幾何模様はページの上部にまで伸びており、それはこの帯が雪の降下から少女のしゃがんだ姿まで一本からかたちづくられているのではなく、(たとえばB.9のaとbというふうに)別個の二つの場面として読み取られることをもとめているのかもしれない。ここでの描写内容をもう少し正確に表現すれば、少女はそこでしゃがみこんでしまっているのではない。少なくとも、すでにすっかりとしゃがみこんでしまっているのではない。降雪の描写から順次視線を下げながら少女のもとに辿りつくことになる読み手の瞳は、そこで今まさにしゃがみこもうとする少女の立ち姿と、そこに今まさにしゃがみこんだばかりの少女の膝を抱えた姿とに、半過去的な未完了の時制の中で、同時に立ち会うことになるだろう。太線で強調された少女の立ち姿と座りこんだ姿の上半身の輪郭線の中間に、今まさにそこでかがみこみつつある動作の軌跡を示す腰から頭にかけての輪郭が、スローモーションのように連なっていく。特権的な正六角形の形象がこの作品の個別の図形に課している作図の規則はここでも厳密に働いており、運動の輪郭はもちろん、それを含む図柄全体が、この六角形の中心から伸びる線とそれを囲う線との、足し引きを含めた巧みな組み合わせからかたちづくられている。少女は今その場所に辿りついたところであり、今まさに腰をおろしている最中でもあり、同時に今まさに腰をおろして膝を抱え、手に握ったマッチ棒を正確に三本、自分の目の前にかざしたところでもある。時間というものがまるで柔らかい蛹の皮膚に包まれてしまったかのような感触が、瞳を通じて、読む者の感覚に達しているだろう。
 「黄色い本」の中には、この種の動作とよく似たスローモーション的な時間表現が描かれている。寝床での読書がもたらす夢うつつの中のイメージの遊離する境が、田家実地子の母親の突発的な闖入と彼女の腕の豪快なひと払いによってパッと消滅してしまうという場面を、かつて作家は描いていた。二コマ(ないし三コマ)に分けられて描かれるこの母親の腕の横ざまの往復運動の連続的な軌跡に相当するものが、「マッチ売りの少女」の垂直方向に屈伸する上下運動の一コマに移設されている。ひとつのフレームの内部で時間の推移を表現するという面に注目すれば、「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」の中からも類似の表現を見出すことができるかもしれない。ベッドに潜りこんだラッキーがサイドランプのスイッチを押して、頭上の照明に灯をともすという場面がそれにあたるはずだ。スイッチを押し、続くコマでは、彼女を照らす三連の照明が一コマの中で、上から下へと順番に点灯していく。この点灯の順序の指示は上下三段に配置された照明の位置と、点灯の瞬間を表示するために書きこまれた「ぽっ」という擬音の、これもやはり上下三段に配置された位置関係によって実現されているだろう。ここでは、この一コマを読む慣習的な視線の動きが、上から下へと、そこでの時間の推移を順序にしたがって意識の中に喚起せざるをえない。「マッチ売りの少女」の屈伸運動には、自作の前例としてすでに存在しているこの二つの動きの表現が(スローモーション的な軌跡の連続性と視線の動きの下降的な傾きという両要素の)合作として現わされているのかもしれない。
 フレームと描写される対象との関係について言えば、このタイプの描写の関係においては、(第一のタイプの場合のように)それはもはや相互の要素を具合よくかんたんに分離することは不可能になっている。複数の正六角形の組み合わせからなるフレームの外形はそこに盛りこまれる絵の(少女の姿勢を描く)輪郭線と一体化してしまっているし、額縁の枠線が、そこに描かれる絵の内容の欠かすことのできない主要な線と化してしまっている。フレームなしにはこの絵は考えることも見ることも不可能だし、逆に、絵のない空虚な六角形のフレームの組み合わせを想像することは、即座に、不可避的に、そこに盛られる少女の絵を呼び出さずにはおかない。ここでは条件づけるものと条件づけられるものとが相互の領分や働きをはみだして嵌まりこみ合い、実在的な手触りを感知させるまでに繁っているようにも感じる。また、この絵はそれじしんの外側にある別のフレームとの関係の中で描写を行うのではないし、シーンとしてのフレーム総体が個別の画面としての諸フレームを包摂するような具合にじしんの描写を紙の上で目に見えるものにしているのでもない。描写は第一のタイプの場合のようにそれ単体として見られる資格をもっているし、第二の場合のように連続的に動くものの軌跡を始めから終わりまで見取りうる、確かな充実さのうちにある。
 第一のタイプの絵には確かなフレームが見て取れる。第二のタイプには分節化が不明瞭なものが混じっており、その総体は物語の文脈に拠って確認するほかない(B.1やB.20で描かれるような、街路に立つ少女の様子の細かな特定のしづらさが最後まで残る)。第三のタイプには、厳密に言えば、そこにフレームは存在しない。空虚を背景に図だけが確かな現存のうちに浮かび上がってくるような印象があるけれど、フレームをなぞる指とそれを追う視線は、その同定作業の中で背後の空虚に突き抜けていってしまう。それはたとえば、目の前に立体として実在する事物の枠を特定しようとすることにも似ているのかもしれない。そこには、絵として描かれたはずの第三のタイプの存在が、最終的には立体物としての存在様式に回収されていってしまうかのような、ある種の際どさのようなものがあるようにも感じる。だとすれば、全面的な底抜けをもたらすような危うい事態がここにはあって、この危うさは第一、第二のタイプのフレームの存在の確かさをも揺すぶって、作品全体の絵としての自律性をどこかに譲り渡すことになりかねない。しかし、たぶんそうはならない。
 たとえば、この作品に描かれる一連の帯に描かれた絵を、折り紙かペーパークラフト作品のようなオブジェの、紙の上への写しのようなものとして受け入れることはできるだろうか。その考えはちょっと魅力的だ。繰り返すように、この作品に描かれる個々のフレームを物としてのかたちから見た場合、それらは角度や長さ、大きさに関してかなり厳密に計算されて造形されており、おそらくここで描かれている絵を実物の紙の上に写し取り、それを立体物として手の中で組み立てなおすことは、すべてにかんしてこれが可能であるように思われる。一見してその構成の読み取りづらい、たとえばB.17で描かれる展開する少女のスカート部分のあちこちに現れる足首の位置関係にかんしても、実際にそれを紙に写し取り、ハサミを入れて絵に見える指定どおりにヤマ線・タニ線をたどっていくと、作家の描いた三つの絵どおりの図ができあがる。紙を現実に切り取りできあがった箱状のそれは、イメージを展開する立体の容れ物のようだ。その意味だけから言えば、この作品のページを埋める大小さまざまな六角形の絵の数々は、本来立体物としてあるべき姿の作品の、その下図にすぎないもののような地位にあるとさえ指摘できるかもしれない。しかし繰り返しになるけれど、そのような作品の見方をかんぜんにとおすことはおそらく不可能だし、また、そんな必要もない。
 これはさっき述べたフレームと絵との関係の第三のタイプともおそらく関係することだろうけど、絵が絵として自立する以前に、それよりもずっと説得力のある方式と存在の確かなありようによって絵が立体のほうに回収されてしまい、それらが二次的な写しになってしまうとしたら、それはそこにおけるフレームの欠如がもたらす事態によるものだったと言えるだろう。描写におけるフレームの欠如は事態をそのような方向へと全面的になだれさせていく。ただし、高野文子の「マッチ売りの少女」という作品は、全6ページのすべてにわたって、確かにフレームが描かれている。あるいは、そこには描かれていないことによって、そこに描かれる。個々の六角形の形象が描くそれでもなく、むしろそれらの形象すべてを包みこみ、しゃがみこむ少女のフレームのない姿をもその内部に収めうるそこでの影のフレームは、実線で描かれた形態どうしの隙間がかたちづくる白紙の余白部分として、それじたいとしてはけっして目には映らない空白の領域に宿っている。角度と長さを調節されて按配され、展開した場合もそうでない場合にも、帯どうしの間で正確に延長線と面とを組み小細工のように広げる正六角形の形象、それらの隙間に白く漂う余白部分こそが、実際的なここでの作図の、真の条件といったものを設けているだろう。上で挙げたフレームと描写との関係のすべてのタイプが、ここを基準にみずからの生を条件づけている。線によって描かれるすべての図形は、この不可視の余白によってはじめて場所を与えられるし、目に見える形象として現れることができる。マンガのコマの枠線の機能といったものが、図の描かれる場所を紙の上に領域指定することにあり、またその機能がじっさいに効力をもっていることじたいを二重化して告げ知らせるものでもあり、その理念の最終的な実現が、この効果の告知じたいをついに無言のものとして、秘かにその場から消失していくことにあるのだとすれば、高野文子が「マッチ売りの少女」という作品で達成していることとは、この枠線の機能と理念との類例を見ない、あまりにも完璧な実現なんじゃないだろうか。図形は目に見えるものとして紙の上に描かれ、と同時に、フレームは空白へと消え去る。そして、この消え去ったじしんの痕跡をも消し去る。消え去ることじたいが消え去るし、描かれないことが描かれる。
 わずか6ページの作品だけど、これは高野文子のマンガをこれから読むうえで、とても重要となる作品になるんじゃないだろうか。そんな気がする。