中野シズカと光の反象徴的なものへの疾走/中野シズカ『刺星』

刺星
 この前読んだ『星匠』が素晴らしかったんで彼女の『オートバイ』という絵本といっしょにこの作品も購入してみた。どっちもおもしろく読んだんだけど、読みごたえとしては分量もあるこっちのマンガのほうがさらに作家の力量の厚みのようなものを感じられた。(『オートバイ』のほうは色彩のにぎやかな楽しい作品で、これもやっぱりいい)。『星匠』と『刺星』、どっちの短篇集も作家の造語からなるタイトルをもつ作品が表題に掲げられていて、しかもそこでの語彙の変更のポイントの「星」ってことばのところがちょっと目を引くアクセントになっている。「星匠」での星は、人が夜の暗闇の中で陥る不安の兆しをはらって、人生の道行きを進む者の小さな灯火ともなる、道しるべかお守りのような役割を果たす光の欠片として描かれていた。この短篇集にもやっぱり同じように星の形象が描かれる作品があって、表題作の「刺星」と「エトワール」という作品がそのうちの二本にあたる。「エトワール」のほうの星の描かれ方は「星匠」との共通点が見やすい。それで人の頭をどつくとどつかれた人の秘められた才能が星となって飛び散るという不思議なハンマーを巡るお話の中で、そこで頭から飛び散る星の欠片は「星匠」同様に、目に映り、手で触れることすらできる光の凝固した固形物として描かれている(ちょうど金平糖のようなかたちをした星が描かれる)。それらの作品の中で星の形象がになうものとは、「星匠」の場合のようにこの星をもたらされた者の人生の安寧にしろ、「エトワール」の場合のようにその星の火花を散らせた者の才能の包蔵量にしろ、どちらも目には見えないし手に取ることもできないものの可視的(で触知可能)な現われといったものであるだろう。絵に描かれたこれらの星の形象は見えないものに向けられた目に見える象徴として作品にもたらされている。事情はこの点で「刺星」の場合とも共通している。寓話的な性格の強いさっきの二作とはことなり「刺星」という作品には、星は星そのもののマンガ的に戯画化されデフォルメされた姿で現われるわけじゃない。ただしやっぱり、作中人物たちの運命の強度をうらなう光度計のような役割をはたす星座の布置の描かれた図表の数々が、「星匠」、「エトワール」両作の場合と同じく、登場人物たちの動向に対して、ワシ座や獅子座がになう運勢を逐一、象徴的な光のもとで強く照らし出すことになる。(わし座の一等星アルタイルの意味は《「飛ぶわし」》、《しし座レグルス「小さい王」》等々)。ここでは、主題として見られた星や星座の役割は、(「スクリーントーン技法」によって)絵の上で物質化されようとしている光の表現を、象徴的な意味作用の領域に押しとどめようとするようにも見える(光は意味論的な重荷を背負う)。中野シズカという作家が活動する領域とはそのようなある種の抵抗のかかった場所なんじゃないかなと思う。
 基本的に寓話や短篇作家としての資質の強そうなこの人の作品は(いつか是非とも長編作品を読んでみたいけど)、どの作品をとっても寓意や象徴的な二重性がそこにこめられていると言ってもよさそうだけど、組み立てられた物語のその種の二重化されたさまが定義的に簡潔に、よくまとまって示されている掌編がこの短篇集には収められている。いつとも特定しがたい古い中国を舞台にした「面子」という作品は、一人の少年の出自を巡る異類婚の物語に分類されるべき類型におさまっている。語り手は三人で、証言もそのつど三度姿を変える。第一の語り手は翁で、聞き手の少年に語られるその証言の言うところを字義どおり(大雑把に)要約すればこうなる、「(お前の)母親は妖怪ではない」。ただし、唐突に語られる証言の中で母親と妖怪とが少年の思いもよらなかった近接関係を藪から棒に結ぶことで、この語りのパフォーマティブで隠された効果はだから、実際には正反対に、少年に、「母親の正体は妖怪だった」と語りかけている。次の証人は少年の父親だ。母親の正体に思いをめぐらす少年に対して彼はこう語る、「(言うまでもなく)母親は妖怪ではない」。この証言は少年にとって一種の厄払いの役をはたす。第一の証言によってイメージの中に現われその場を占めた妖怪の姿は、それが父と母との馴れ初めの、ゲームめかした駆け引きの中での為にする口実にすぎなかった事実を聞くにおよんで、少年の想像的な場所から妖怪は姿を消していく。第三の、最後の証言は母親みずからが語る。「お前の母親は妖怪ではない」。この証言のことばは字義どおりには受け取ることのできない偽証の性格をかたちづくっている。少年には聴き取りづらい証言の傍注とも言える場所で、母親みずから自身の証言をくつがえす内容の補足を秘かに付け足しているからだ。その補遺的なことばをも踏まえて要約すれば母親の証言はこうなる、「(とうの昔にすでに私の殺してしまっている)お前の母親は妖怪ではない」。第一、第二の証言がかたちづくられる論理においてはひとつの確固としたイメージ(母親の姿)が保持されたうえで、母親が妖怪であるにせよあるいはそうでなかったにせよ、その認知の枠組みじたいは揺らぐことのないことが保証された結果、問いは問われている。問いかけの答えがどっちに転がろうと、証言によって最後的にイメージはイメージの本来あるべき姿を少年に取り戻させることが可能になるだろう(「母親は妖怪だった」、または、「母親は妖怪ではなかった」かのどちらか一方に落着く)。第三の欺瞞的な証言方式においては事態は異なる。逆説的にも、この偽証の言述だけが真実のことばを紡いでいるだろう。この言説は論理的な前提の構成を縦に切断する誤謬を犯すことによって(問われている1を不当に2に分化することによって)、イメージとイメージの宿る実体の場所とをともども二つに裂いてしまう。そして、この誤謬論理だけが過去に起った殺害という、幻想的でありながら、なおかつ現実でもあるできごとの真実を表明し、少年の現在にこれをもち来たすことがことができる。すでにイメージは二つに割れてしまっており、もはや母親とも呼びがたい一人の女の影のようなフィギュールが殺害という純粋なできごとのイメージを、現前しているイメージ(妖怪/母親のそれ)のかたわらで、残余として消えることのないままとどまらせつづけることになる。これはイメージにおける偽証の否認的効果とでも言っていいんじゃないだろうか。ここでは妖怪とは、ある存在(母親)を象徴すると同時に、その存在の不在(殺害)をも象徴し、代理するものとして現われている。光や星の輝き、半透明の幽霊のまとう不可避の重みとは、この象徴の宿す反自然的で二重化された負荷の圏内からこれにまとわりつこうとするものなんじゃないだろうか。
 中野シズカの作品において物語の象徴的な主題であったり、モティーフだったり、細部であったりする所与のもろもろは、前述の星の輝きや光の到来がそこをくぐってやってこなければならない小窓か点状の小さな穴、あるいはいっそスクリーントーンの網点の間隙とすら、ほぼ同じものであるようにも思う。窓にかんして指摘すれば、『星匠』に収めれられた「藤ヶ丘」や「タヌキのお屋敷」同様、この作品集では「シナモン」という作品が見えないものと見えるものとを連結するレンズのような役割をはたす細部の小道具を示している。そこでは、遺棄された講堂を飾るステンドグラスの破れた隙間から一人の女生徒の幽霊を光とともに画面内に導きいれることに成功する。作品集の中でもっとも力のこもった(ということは、そこでの光にかかる象徴的な偏向の度合いももっとも高い)表題作の「刺星」は、光と闇、白と黒、天上と地上、見上げることと見下ろすこと、栄光と畏れ、強さと弱さ等々といった二元論的な象徴的主題の氾濫の渦中にあって、作家が絵を描くことという現実の営みの過程をくぐり抜けながら、作品世界に描かれる事どもと同時に自身をもまったき光のなかに救い出そうとする姿を見て取ることが可能かもしれない。野暮な憶測はともかく、ここには、真っ黒な紙に無数の細かなピンホールを連ならせて星座と光の形象を描き、自身の瞳いっぱいに光からなるイメージを到来させようとする一人の栄光ある少年の姿が描かれていたのだった。反転した(あるいは網点の極大まで拡大された)スクリーントーン以外の何物でもないこの黒い紙を光にかざす少年とはしかし、やはり作者中野シズカ以外のいったい誰だと言うんだろうか。

行こう! 泥まみれを覚悟で/大破するまでつっ走れ!/みんな 一緒に さあ!

『オートバイ』