中野シズカ『星匠』

星匠
 
 まずカバー絵のデザインに一目で惹かれて、タイトルの星匠ということばの漂わせる不思議なイメージもなんだか魅力的で、アマゾンのオススメページで書影を見かけたときからちょっと気になっていた。本屋で実物を手にとってみたら思っていた以上に良い雰囲気の絵だったので、ともかく購入してみる。今までまったく知らなかった作家だったんだけど、とてもいいマンガだった(「通り雨」という短篇がいちばんおもしろいと思った)。帯の文章では「スクリーントーン画」というふうに紹介されている、スクリーントーンを切った貼ったして作り上げるこの絵柄が特徴的ですごくおもしろい。コマの枠線だとか線による明確な強弱のどうしても必要な細部なんか(人物の目鼻立ちとか)は基本ペンによる表現が用いられているんだけど、それらはできるかぎり抑えられている感じで、紙面の大部分は大量のスクリーントーンによって埋められている。トーンによって紙面が埋められていると言ってしまうとのべつまくなしって感じでちょっと語弊がある。それらはたんに見境なく貼りつけられてるわけじゃなくて、墨のベタ塗りによって表現される濃い影の面と白抜きによって表現される光源やその光の当たる面との緩衝する、中間的な、あわい光と影とが織りなす平面での、事物の複雑な質感や表情なんかをうまく表現するよう丁寧に考えられて配置されていることがわかる。トーンの重ねがけによって生じるモアレを利用したグラデーションの起伏の微妙なコントロールなんかも見ごたえがある。(そのかわりといっちゃなんだけど、この中野シズカってひとの描くペンによる線じたいはあまりおもしろくない。タッチがないというか、強弱に乏しい感じで、ペン画の部分にかんしてはトーン部分とくらべてだいぶ見劣りしてしまう。人物のポーズの取りかたなんかもすごく類型的というか、あまりいい意味ではなくマンガ的なところがあったりして、彼女の表現しようとする世界にたいしてこれはいずれ足を引っ張ってしまうんじゃないのかと余計な心配をしたくなるところもある)。仮に、ここで貼られているスクリーントーンをぜんぶ剥がしてしまったとしたら断片化された(虚空に浮かぶ目や鼻、斜線や効果線だけからなる)線や点の散らばりが露わになるばかりで、画面を構成する絵としてはまったく成立しないことになってしまうだろうと予想する(また、制作過程のたぶんペン入れ後くらいの段階には、作家の前にそのような不思議な原稿が現に存在しているであろうことも予想される)。そのくらいにこの作品集のトーン表現にあてられた比重は大きいし、ちょっと異例な使用法だと思う。
 スクリーントーンによって表現される絵をこんなにじっくりと長い時間かけて眺めるということだけとっても、まずほかのマンガじゃ無い体験でおもしろい。当たり前のはなしなんだけど、スクリーントーンは原稿用紙の上にこれとは別のものとして重ねられるさまざまな柄や模様のレイヤーないしユニットであると同時に、ミニマルに整列した点描であって、印刷されたものをそれとして見るなら、マンガのページに見られるインクによって引かれた線や墨のベタと同じ資格をもつ黒さの一部をかたちづくっている。しかしそれがたんなるベタ塗りだとか連続した線描とは異なるものとして視覚に触知されるのは、規則的な点描の黒さの隙間に同じくミニマルに整列する、地である紙の白さからやってくるものによるだろう。スクリーントーンの効果は地と図を一目で、一挙に、包括的かつ同時的に見ることのなかで錯覚として体験されることになる。それは黒さと白さの視覚的な眺めの経験であるし、またこう言ってよければ、点描された枠をもつ小窓の向こうの白い隙間を覗きこむかのようなミニマムな見ることの経験でもあるだろう(しかし、ふつうのマンガではこんなふうにスクリーントーンを意識しなければいけないなんてことは起らない)。
 そういえば、この短篇集に収められた「タヌキのお屋敷」という作品のなかには、登場人物が小窓状の小さなガラスを透かして何かを見つめるというしぐさが二度描かれている。「藤ヶ丘」という作品では、この覗きこむしぐさがなまこ壁の塀に開いた窓の向こうの亡霊的な人物を認める合図のようなものとして、物語の重要な機能をはたしている。たぶんどっちの場合も、ふだんは「視えない世界」に向けて特殊な視力の照準の微調整をうながすような予備動作の意味合いがこめられている。(「タヌキのお屋敷」の少年は《誰も居らんと思ってた》屋敷に入りこんだ闖入者を眺めるために男の眼前で豆電球をかざす、あるいは、《もう誰も居らん》屋敷を確認するかのように最後にもう一度、電球越しに屋敷をおさめた遠景を眺めいる。そして実は、この小さな男の子こそが「視えない世界」に属する住人であることが明るみになるにおよんで、豆電球を通過する視線は少年からだけではなく、少年へと向かう可逆的なものでもあったことが確認される)。
 「視えない世界」っていう言い回しは作者である中野シズカさんが自作の性格を語るさいに「あとがき」でそのとおりに述べているところのものだ。

 「通り雨」のように降りそうで降らない天気にヤキモキして洗濯物を入れようか入れまいか迷っているというささやかな日常や、「藤ヶ丘」での遺品を整理して家族の歴史に無関心な汗かきの古道具屋と遣り取りするこれまたどうでもいい事は全て実話であるけれど、そんな些末な出来事と同時に視えないところでは、小さなキツネの嫁入りご一行がそそと現れて食べ残した菓子をつまみ食いしているかも知れないし、裏庭の朽ちた藤の木は何か恐ろしい事件を秘めているかも知れない。夜寝ている間に月はとろけ、枕許に何かが星を運び、庭先には死んだあの人が花の近くでひっそりと佇んでいるやもしれない。/その「視えない世界」は高速の二度見を必死にしてもほとんど視ることは出来ない。けれど、それがふいにまろび出てこちらに触れた時、ゾッとするほど冷たいかホッとするほど温いか…。

 「視えない世界」の事どもは、「それがふいにまろび出てこちらに触れ」ることもありうる、実存への手触りのようなものとして経験されようとするけれど、その「ゾッとする」のか「ホッとする」のか定かじゃない不思議な感触の訪れは、ただし、見えるもののいかにもあっけらかんとした瞳への接触を通じて、紙の上に繰り広げられるこの中野シズカの世界へと達している。「星匠」の主人公のかたわらでふだんは見えないけれどいつでも守護神みたいな星匠の男の存在が彼を静かに見守っていたように、あるいは「ネムノキ」の主人公のそばには、これ以降いつまでも死んだ友人の存在が寄り添いつづけるであろうように、それらは目をこらせばいつでも、光と影とが織り上げる世界の一角に、見られうるものの姿で確かに、誰かの瞳により見いだされることになるだろう。「一夏」のひょうたんの精だとか「星匠」の露払いみたいな役割をつとめる小さな妖精、「通り雨」の「キツネの嫁入りご一行」、骨董屋の棚に立つ「スワン・ソング」の陶製の小さな人形、それらの存在のごろりとした感触をともなう現われは、「視えない世界」へ向けられる視力の転調が、同じようにあっけないくらいにたやすく、いつでもどこでも、あっというまにその世界へとチューニングしうることをあかしているかのようだ。主人公である小説家の過去に起った外傷的なできごとをめぐって話が紡がれていく「藤ヶ丘」の物語では、「視えない世界」へと徐々に馴染んでいく遠回りの叙述の行程を読み手に経巡らせると同時に、しかしその「視えない」何かが作品冒頭の1頁目にしてすでに桟越しのおぼろげな姿を紙の上でしめしていることが確認できる。中野シズカの「視えない世界」は見えるものの資格においてのみ、光と影の混じりあいはじめる(まだすっかりとは混じりあってしまっていない)あわい領域で、その姿を露わにすることになる。
 この「視えない世界」からの来訪を告げる使者のような役割をはたしているキャラクターたちは二つの異なる顔をもっているようにも思う。一方には、しばしば男の子の姿をまとって現れる妖精やもののけの類がいる。「星匠」の提灯もちの役目をつとめる小さな妖精のような男の子や「一夏」のひょうたんから生れて「コロ介」と名づけられた小人、「スワン・ソング」の師匠に仕える弟子を模した陶器の人形や「タヌキのお屋敷」のキツネかタヌキが変化した男の子の二人組、それから「通り雨」の「キツネの嫁入りご一行」の小さな行列。彼らに共通するものは、いずれもその身の丈の小ささという特徴において知らず愛嬌を振りまき、物語の主人公である男たちを出会いがしらに視覚的に魅了するものだという点だろう(友人の営む骨董屋で出会った人形を身をかがめて覗きこむようにして見入る「スワン・ソング」の主人公の姿は、この短篇集における小さなキャラクターと登場人物との関わり方の典型的な姿勢をしめしているように感じる)。姉と弟の小さなきょうだい二人がとろけた月の雫でできた飴菓子を求めて夜の雪道をさまよう「Taffy(タフィ)」という掌編には、この短篇集では例外的に、彼らを見つめる大人の男たちがひとりも登場しない。ここでは、彼らの快活で愛嬌のあるしぐさに魅了されるのは物語のなかに現れる何がしかの人物ではなくて、このお伽話のページをめくっている読者であるという想定が許されるかもしれない。いすれにしろ、小さなものたちは紙の上に「視えない世界」の見える姿を描くことを許す先触れとして、また彼らじたいがそれだけで何か人目を惹きつけずにはおかない《高速の二度見》の対象として中野シズカのマンガの世界にその姿を現わしている。
 「視えない世界」に対して渡りをつける目に見える対象として、また一方で別の特徴をもつ人物たちが現れる。男の子たちや妖精たちの小ささとは別の属性をもつ対象として、幽霊のような半透明の姿をした人物たちが現れる。「一夏」や「藤ヶ丘」、「ネムノキ」といった作品には、それらの主人公たちの過去とただならぬ因縁をもつ男たちが淀んだ記憶の底から亡霊の姿で回帰してくる。スクリーントーンによる描画の真骨頂の一面をしめすこれらの幽霊の表現において、それは半透明さによる半透明さの自己顕示のような様相をしめしている。原稿用紙の上からさらに一枚重ねられる、物としての属性においてそれじたい半透明のレイヤー状の薄膜が、物語の現実において出来事の場を記憶のマジックメモみたいに覆う幽霊のレイヤーを表現することになる。スクリーントーンの物としての属性が、幽霊の、「視えない世界」の表現としての描画の形式面、内容面とにぴったり一致していると言っていい。すくなくとも中野シズカの『星匠』というマンガの世界では、幽霊とはスクリーントーンのことだし、スクリーントーンとは幽霊のことだと、何の抵抗もなく言い換えることができるだろう。その意味で、暗闇に漂うタバコの煙も、屋根瓦をつたって流れ落ちる土砂降りの雨水も、開いた冷凍庫の扉から溢れ出る冷気も、提灯の灯に照らされて虚空に浮かび上がる小説家の原稿のことばすらも、すべては潜在的な幽霊による幽霊の効果と言ってもかまわないだろう。そして、この幽霊としてのスクリーントーンの効果は「視えない世界」という同じ本性を介して、誰かの視線を引き寄せずにはおかないあの男の子たちや妖精たちの小ささの属性へと合流していくはずのものだ。幽霊のように半透明でふだんは目に「視えない世界」は、反転する無数の小さな白地と黒い点との整列によって目には「視えない」レイヤーをかたちづくりながら、まったく同じ訳合いによって、否応なくそこに人目を惹きよせて「視えない世界」を目に見えるものとしてこの紙の上に、半透明を重ねなおす。
 ……高野文子の「黄色い本」のページをパラパラめくっていたら、やはりそこでも、半透明で幽霊的な表現をほどこされる一群の人物たちに出くわした。作品のなかで主人公の田家実地子が読み続ける小説のなかの登場人物たちが、彼女の知覚の現実に覆いかぶさるようにして、別種の現実の可能性を体現するかのように、彼女の眼前に姿を現わし、会話を交わす。力強く、激励をあたえる。彼女がそこでほどこす幽霊的な意匠は、背景に存在するカーテンや夜の闇のベタ塗りの黒色を輪郭線によって柔らかく、実に大ぶりに区切って、そこに現れた別種の生の証人たちを半透明に表現しようとしている。高野文子ならそれを「視えない世界」とは呼ばないように思うけれど、ともかく中野シズカはこれと近接した事態を表現しようとしているとは言えると思う。(評判では市川春子のマンガが高野文子のそれとよく似ている、みたいなことをときどき耳にするけれど、たとえば『虫と歌』に収録された作品のうち、どれか一作でも高野文子のマンガと似ているものなんて本当にあるんだろうか?)。考えてみると、「黄色い本」という作品は光と影とが交錯する半透明の主題や表現にこと欠かない。スクリーントーンをたくみに使用した実例もふんだんに盛りこまれている。(雨のなかを走るバスのガラス窓に横ざまに流れ去る雨滴の影の、車中の人物の上に反映する様子とか、冷静に考えると物凄いことをこころみている)。
 それはともかく、中野シズカという作家は、知ってか知らずか高野文子の達成した表現の場所のすごい近くにあって、そこから別の場所へと、本当に、一歩を踏み出してみせたマンガ家なんじゃないか、という気がする。ほかの作品も読んでみたい。