本秀康『ワイルドマウンテン』

 このあいだ出たVol.8を最後に、とうとう『ワイルドマウンテン』が完結した。1巻の奥付けを確認すると初版が2004年だということなんで、この作品とも6年近いつきあいだったということになる。もっとも、連載が掲載されてた雑誌のほうにはまったく目を通しておらず、年に一、二回、単行本が出るごとの間欠的なつきあいだったんで毎月べったりという感じではなかったんだけど、それにしても6年ものあいだ定期的に気にかけていた大好きな作品が終わりを迎えたということは、とうぜん喜ばしくあると同時に、またやっぱり、ちょっとさみしい、しんみりとした気分にさせるものがある。連載中にはいっかいもなかったことなんだけど、大団円をむかえたということで、1巻からもう一度通しで、最後までいっきに作品を読み直してみた。以下、ものすごく図式的に感想(ネタバレを気にしなきゃいけないようなつまんないマンガではまったくないけど、出たばっかの本だしいちおう念のため)。
 『ワイルドマウンテン』って作品の劇における組み立てかたを思いっきり大雑把にまとめれば、これをひとまず、知らないことと知ることとのあいだで交わされる葛藤と和解からなる戯れ、みたいなものとして見ることができるように思う。知らないことと知ること(すでに知っていること)は、物語を横に流れるレベルでは、登場人物たちのあいだで彼らのそれぞれにそれ(隠されているできごとや行為)に対する距離によって測られるふさわしいポジションを与えたり、また進行する物語の状況にしたがって新しいポジションをもう一度与えなおしたりする、その基準みたいなものとしてある。また、物語のなかで進んでいくはなしの流れとはかならずしもいっしょに進んでいかない(早く知ったり、知るのが遅すぎたりする場合もあって)、その物語を読んでいる私たちに対してもやっぱり同じように、ただし登場人物たちとはべつの座標のうえで、その位置をもうける基準になっている。知ることと知らないこととがそれに対して関係して踊りだし、しかしそれじたいは動かないこの基準点を、ふつうに秘密とよぶような気がする(秘密じたいは動かなくても、物語は新しい秘密を星座をつくるみたいに散発的にばらまいていく)。秘密といってもいいし真実といってもいい、状況の隠された中心にある何かのできごとや誰かの行為によってかたちづくられるその核みたいなものとの隔たりや一致が、物語のなかで語られる事がらの推移をしめしているし、そこにおける人物たちどうしの関係のありさまとさまざまな価値をにないうるポジションとを決定づけている。知らない=「まだ-知って-いない」と、知っている=「もう-知って-いる」は、構文的な要素(時制的な指標と性質的なカテゴリー)の組み合わせのパターンから、「まだ-知って-いる」=覚えている、「もう-知って-いない」=忘れている、みたいなべつの潜在的な言表を引き出すことができる。
 『ワイルドマウンテン』という作品には、秘密と知ることとの関係が登場人物たちのあいだでかたちづくる編み目模様がたくさん張りめぐらされているけれど、この秘密と知ることとの結び目のひとつひとつに対応して、同時にその数だけの嘘や偽装の身振りがこの編み目模様に差し合わされてもいる。秘密は、それが隠されたできごとや行為それじたいにあるままで眠りこけつつ、知ることをいっさい挑発することがなかったんだとすれば(まだ知られていないものがあるということを知らせていないならば)、知ることが自覚してそれに結びついて編み目模様をかたちづくることもできないままだったろう(秘密じたいは潜在的に動かない基準の役割をはたすだけだ)。また、秘密が知ることにじかに後続されて直線的に結ばれてしまっても、物語のなかの時間はしだいに展開する編み目の広がりをかたちづくることができなかっただろう。知ること(まだ知らないこと)が秘密との関係で動き出すためには嘘や偽りの身振りがそのあいだにさしはさまれる必要がある。あるいはより正確には、知ることと秘密とのあいだの隙間を埋めるために嘘が挿入されるんじゃなくて、まず嘘が絶対的に先にあり、この無償でなにものとも交換されないはずの嘘や偽りこそが時間のなかで秘密や知ることへの欲望を産みだし、見かけは弁証法そっくりの嘘(秘密と知ることとの関係にあって役に立つ嘘)を編み出していっていると言ったほうがふさわしい気がする。つまり、性質がまったくべつの二種類の嘘がここにはあるようだ。『ワイルドマウンテン』の物語はある大きなできごとの場面描写から始まる。そして、それが主人公にとって、誰にもけっして明かしてはならない秘密となっていることが読み手に知られる。できごとの真実と秘密は最終巻まで維持されるけれど、最後にとうとう、このまだ知られていなかったことが人々の知ることというできごとに追いつかれる。これは(これだけ見れば)、物語における嘘の弁証法的な効用といったものだ。物語は弁証法的な最後の局面にいたって、アクロバティックな宙返りを演じてみせる。弁証法の定式のなかに媒介項としてさしはさまれて殺されていたこの偽の嘘を、始まりのできごとの場面にみずから遡行的に送り返して、嘘といっしょにほとんど殺されかけていたこれまでの物語のすべてを、純粋な嘘という行為の放つ力のもとに、新たに救出しなおすことに成功する(始めにあったものは秘密や隠されるべきできごとだったんじゃなくて、大いなる純粋な嘘こそがいちばん最初にあったということが、弁証法的な卑小な嘘の完全なところばらいとともに、証し立てられることになる)。知ることに対してそれを秘密や真実から逸らすことを目的にすることや、またはそれを逸らしつつも最終的に真相へと導いていく適度な負荷となる手段とすることは、それら秘密と知ることとのよく調整された配分として嘘と真実との二分法的な結びつきをかたちづくるだろうけれど、『ワイルドマウンテン』の最後に見られるあの夢のような嘘のもとでは、ひとは、それが真実であるか欺瞞であるかによって配置されるようなポジションを決定づける視点をまったく欠いたまま、(嘘と対になる真実からも、真実と対になる嘘からも見放されて)そこにすでに自分がいたことを確認することしかできない。純粋な嘘っていうのは、ここではそういうような力として考える。そしてそれは、真実と嘘とのペアが作りだす、秘密に対する知っていることと知らないこととの閉域的な(または、城砦の内側のように安全な)配分からひとを解き放って(または、放り投げて)、「まだ-知って-いる」と「もう-知って-いない」とのどちらとも決定しがたい、ある寄る辺のなさの方へと私たちを導いていくようにも思う。本秀康のとても愉快な『ワイルドマウンテン』を読み終えて最後に感じる印象は、そのようなものだ。