高野文子と余白のポジティビティ

 高野文子の新しい連載が予定されているというはなしを聞いてみなぎってきた。ということで、ここ何日かかけて、ゆっくり彼女の今までの作品を読み直している。読むたびにやっぱり凄いという印象なんだけど、今回は白さと黒さ、明るさと暗さ、線によって識別できるものの形象とベタで塗られて黒く均される面といった対照がとても目についた。物理的な実在の観点からすれば、定義において、黒さや暗さの属性はそれじたいで自足して光や明るさを何ら必要としない第一次のものであって、後者の特質が後からやってきて、それまで深みのままであった暗さや影に折り重なるように宿る、寄食する、第二次的な表面に貼りつく、みたいなことなんじゃないかと思う。けれど、高野文子の作品ではことがらの順序はまったく逆の推移を示していて、余白や背景に溢れる紙の白さこそが第一次のものであって、ペンで描かれるインクの線やベタ塗りの墨の黒さが第二次のものとして現われ、そこに描かれる人物や景物の個別性を識別できるものにしている。暗闇のように黒い白さがあるし、光のように明るい黒さがある。マンガの生きる所与の環境としてそれは当たり前のことのようだけど、その当たり前を当たり前として、描くことの水準でほんとうに生きるということは、じつは当たり前のはなしではないんじゃないだろうか。以下、読んでる最中に思いついたことを走り書き的にだらだらと。


 白い原稿用紙に黒いインクを使ってペンを走らせると線が引かれて輪郭線ができあがり、余剰的な効果としてそこに何がしかの対象のかたちが現われる。白が先で黒い線は後。白さは描画の条件で、黒さはそこにおけるかたちの実現ということになるだろうか。高野文子の作品からその反証を聴き取ることをこころみてみる。白を白として潜在的な待機状態から浮上させて、黒さにおけるかたちの実現に対して、紙の白における表面の反-実現として現動化させること。ポジティブな白紙の力能を全面化すること。白さを黒さに反証させるんじゃなくて、白さが紙の白さ自身を媒介なしに肯定することを読み取れる。
 商業誌デビュー作の「絶対安全剃刀」はすでに白と黒という高野文子的な主題が画面のいたるところに溢れていて(というか、それを巡って描かれてすらいて)、この作家の現在までつづく関心の一貫した有りようをよく示しているように思う。そこでは、呑気な自殺志願者である死装束姿の真っ白な若者と学生服の黒さの際立つ彼の友人の姿との色調のコントラストが画面を支えている。死を巡る抽象的なお喋りとその試みの軽妙な帰結が描かれる短い筋立てのなかで、安全剃刀の刃の薄さが実現する死は、これ以上ないくらいの軽さとあっけなさで、学生服の黒さの方に配分(誤配)される。観念としての死はおそらく、初期の高野文子の作品で、出来事の重さと軽さの質量比や明暗のコントラストを転倒させるために役立っていたよう思う。(「花」とか「はい─背すじを伸してワタシノバンデス」*1、「ふとん」といった『絶対安全剃刀』所収の諸作でその主題はあらわだと思う)。死の明示的な主題そのものが重要なのではない。そうではなくて、ここで死がそこにおいて(反)実現されようとしている天使的な軽さや薄さ、厚みの無さこそが作品を生産していることは、その後の高野文子の歩みを知っている者には明らかだ。高野作品におけるスカートや服飾品、カーテンや布地といった厚みをもたない表面だけからなる膜質の対象が宿ろうとするのはそのような領域だろう。すでに「絶対安全剃刀」の真っ白な死装束が空気をはらんで広がっていたところのものに、たとえば「ボビー&ハーシー」のピクニックシートや「うらがえしの黒い猫」の部屋にかかるカーテン、「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」の少女たちのまとう袴や舞台衣裳がじしんの分身を見出すだろうし、あるいは、「病気になったトモコさん」の風に舞い飛ばされるオブラートや「美しき町」の洋服の裏地で作られた光を半ば透す手製のカーテン、「黄色い本」で田家実地子とテレビのブラウン管のあいだに吊りさがる蚊帳の表面等々が主題的に参加して、じしんの複製を作品を越えて生み出していく。しばしば風を受けとめて空に舞ったり、重力を無視するかのように空中にとどまる*2それら(非)物体的な対象の白さの属性は、高野文子的な作品の規則に則って、ここでも、描かれたインクの黒さとして見られなければならない。白くて、大気より軽やかで、目にはけっして映らないその表面の広がりこそが、作品を裏地から支えている。「うらがえしの黒い猫」のぬいぐるみみたいに、表面や裏地を切り裂き、骨抜きにして綿を抜かれてしまったら、すべてが台無しになってゴミ箱送りになるほかない脆弱な表面、それこそが高野文子の諸作を支えているもののように思う。だから、落下する布地、「美しき町」の若い夫婦の前に押しつけがましく差し出される団地の階上の住人の落としたパンツが彼らの生活の凶兆となる理由はちゃんとあることにもなる。布の落下とは、高野文子の作品風土においては、ほとんどありえないできごとではあるからだ。布は地面に落ちてはならない。それにはポジティブな理由もある。なぜなら布や表面は、ほんらい非物体的な本性をもつものとして、垂直的な運動性を組織するよりも領域を横切って場を広げていく運動だからだ。仮面劇である『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』は、布(内側に折り曲げられ逆展開された表面としての帽子)が描く運動の軌跡にそって、その周囲に人物の行為や事件が出来していく物語*3としてあり、この帽子の運動はそのまま、高野文子的主題の/における分身や増殖の過程を展示するものとしても読まれることができるだろう。ラッキーの被る帽子は機密文書を隠した帽子と交換される。機密文書を秘めた帽子は「ピンポット公国代だいのお姫さまに伝わる王冠」をモデルにするコピーとしてある。あるいはむしろ、コピーとしては、ない。それがコピーとしてあるという事実が明かされるとき(形而上学的で垂直的なイデアの似姿にすぎないものに落ちこむとき)、物語の運動は停止せざるをえないからだ。二枚の羽を頭頂にいただいた軽やかで滑稽な帽子が分身や交換の効果をその周囲に生み出すのは、モデルからかんぜんに自由である場合だけだろう。読者は、高野文子の作品においていつでも白を黒と認めることができるように、ここでは、物語を逆向きに、モデルに回収されるコピーの祝着の物語から、イデアの境位において奔逸するシミュラクルの横ざまの戯れを読み直すことができる。
 白さと黒さ、あるいは明暗のコントラストと、布の表面性や軽さ、分身性が出会う場所に、高野文子の作品における鏡の主題の導入の積極的な正当性を見出すことができるように思う。鏡もまた、すでに「絶対安全剃刀」の時点において姿を現している(読むことを圧倒する作品の絶対的な速さ、その先行性に驚く。読者は原理的に作品の後からその場所にやってこなければならないわけだけど、やっと追いついて作品に接しても、その時点では、いま目にしているものの可能性の一端も理解できていないし、そのことを気づいてすらいない。作品の享受はいつでもよちよち歩きみたいなものだ。そして、それは、作品にとっても、それの受け手にとっても、素晴らしいことだと思う)。表面であることや光や白さを反映するものであること、また、分身を増殖させるものであること、それらの既知の特質とは別の何かを鏡の主題は新たにもたらすだろうか。そうだ、と答えることができる。高野文子の作品にあって、鏡は、人物のうしろすがたを生み出すことができる。言い換えると、鏡は、既知のものとは別の(風をはらむ布の柔軟性、展性とは別の)、表面の新たな次元を作り出すことができる。鏡の前に立つ人物がその反映のうちに自分の顔や姿を再確認するしぐさは、鏡の通常の使用法として、高野文子の作品において類例をこと欠かない。そこで鏡は、部屋のなかで人物とその周囲の事物や別の人物との関係において、それら相互の深度や位置を測る遠近法的な尺度として機能している。人物の背後から眺められた「うしろあたま」の裏側には、鏡の表面に映りこむことになるその人物の表の顔が、奥行きの底面として存在する(同じ理由で、隠された顔や俯かれた顔の絵の背景には、信憑として、その絵で描かれなかった奥行きが当然にも存在する)。鏡の異例の使用法は、それらの奥行きや存在の信憑とは異なる。その使用においては、「うしろあたま」は「うしろあたま」のまま、鏡の表面に顔と奥行きのアリバイをもつことがないまま、絶対的な表面として白紙の画面に広がりだしている。具体例は三箇所だけある。「いこいの宿」の扉絵に描かれる鏡の前でおめかしするアネサ、「ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事」の鏡台に向かうお嬢さま、「黄色い本」でガラス戸の前に正座する留ーちゃん。それらはいずれも、鏡の前に立つ人物が、少なくともその一瞬だけは(前と後ろのコマに挟まれたそのわずかな隙間においては)、奥行きからも顔の真実からも逃れさることが可能であるという白紙の表面の力を例示している。その表面の力能は、たんに人物の後ろ姿や隠された顔の一部分を描くだけでは、正常で通則的な奥行きの信憑に捕らえられたまま潜在的な地位にありつづける。マンガの紙と紙に描かれた何がしかの対象(布、スカート、鏡、幕、等々)との関係が本質的なのではない。本質的なものの境界は、マンガの紙と紙に描かれる対象との関係を通過して、視力や網膜と紙の白さ黒さを分節する表面の薄さに分水嶺をもうける。こうして鏡は、鏡であることを脱ぎ去って、ただしその鏡性は保ったまま、別の場所(別の対象、別の表面的客体ではなく)に移動することができる。物的であり、絵によって描かれる対象として物語の内部に属する要素であった最初の表面(布地とスカートがその特権的な形象だったところのもの)が、今度は、非物体的で、絵を描くことを可能にする条件として作品を横の方向へと延ばし広げていく領域性である第二の表面(鏡や書物の紙の一面がそれであろうはずのところのもの)が見出されることになる(田家実地子の指がめくる書物のページ)。
 「田辺のつる」と「奥村さんのお茄子」で全面的に可視化される問題は、「方南町経由新宿駅西口京王百貨店前行」の時点で、すでに、密かに、後年に起こることの前触れとして前景化されている。四角いバスの窓ガラスから覗く空白の空、その白さによって隠される対象(スーパーマン)、扉の向こうに消えていこうとする三人の少女。項目の常数はすべて「田辺のつる」と「奥村さんのお茄子」へと引き継がれていく。暗闇より黒い空白によって表現される扉や弁当箱、その背後に想定される人物や茄子漬けの所在は、鏡の前に立つ人物の顔が特別な場合そうだったように、けっして測定され同定されることはない。扉や弁当箱の裏面に無があるからではないし、無が隠されねばならないからでもない。高野文子の白紙がすでにポジティブな表現における着手の転倒的一段階にあることを知っている私たちは、未着手の白紙が白紙のままで、これからインクによって何がしかの形象が描かれる図柄と線の黒さにおける描くことの実現と、すでに原理的には見分けがつかないものになるであろうことも知っている。裏面に無がある、という言い方をするべきではない。裏面が無い、という言い方をするべきでもない。表面だけがある、という言い方をするべきだ。するともう、夢のような素早さで、いつのまにか「火打ち箱」の形成する全領域に移動し終えてしまっていたことに、私たちは、遅まきながら慌てて気づくことになる。裏面と表面がひと連なりになった一枚の画用紙のなかから表面だけによって形成される奇妙な、真っ平らの兵隊さんが立ち上がり、紙の(表に対する)裏とも(裏に対する)表とも関与しない、あらゆる表面すべてを生息領域とする軽快な探索がそこに始まっている。驚くべきできごと。

(……)「でも、そこでおれはなにをすればいいんだね?」
と、兵隊さんはききました。
「お金をとってくるのさね」
と、魔法使いはいいました。
「まあ、おきき。
木の底は広い廊下になっていて、
とても明るいよ。
ランプが何百とついているからね。
そこに扉が三つならんでいる。
鍵は鍵穴にさしたままになっているよ。」
 『火打ち箱』

 深度(木の底)に沈み、価値実体(王冠やお金)に捕らわれてあるときでさえ、表面として反-実現されるこの薄っぺらな兵隊さんの冒険こそが、深さにおける探求や価値の交換過程を可能にしている。高野文子における余白のポジティビティとでも呼んでよいものがそこにあるんじゃないだろうか。

*1:世代のあいだでリレーされる生殖の営みの「ワタシノバン」への予感が銭湯での老婆や母と幼児との交流をつうじて主人公の若い女性にうっすらと開かれるという結構において、「ワタシ」のすでに過ぎ去った赤ちゃんのころの記憶といまだ到来しない「ワタシ」の赤ちゃんを抱くことへの予期のはざまで、『意味の論理学』のドゥルーズが論じているような意味での出来事としてのアイオーン的な時間が現在を二方向に逃れる仕方で、「ワタシ」を、もはや死のものと見分けのつかないような時間の広がりに解放する。みたいな意味で、ここで起っていることはドゥルーズ的な死=出来事とよく似ている。

*2:カーテンとともに、『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』のデパートの売り場に展示される帽子がその最良の範例になるかもしれない。そこでは、無数の頭部なき帽子が宙に浮かび、あるいは逆に、鏡面の反射を介して、帽子は床下へと浮かぶ。

*3:『絶対安全剃刀』所収の「早道節用守」が描くのも、「ラッキー嬢ちゃん」同様、物品の効果の周辺に人と事件が継起していく出来事の線だ。『意味の論理学』にならえば、それは継起と結合のセリーをかたちづくっている。対して「ラッキー嬢ちゃん」はといえば、もっと模範的に、帽子という奇妙な対象が特異点となってデパートの内部を駆け巡り、物語の表面で、空虚な升目(シニフィアン)としての帽子=王冠のセリーと位置なき占有者(シニフィエ)としての争奪者たちの描く軌跡の二本のセリーを分岐させ、連結し、発散と収束の交代的遊戯を演じている。