下書き28日目


 26ページ目を終えて、27ページ目の半分すぎたとこまで。
 休日で5時間以上は原稿に向かえたんだけど、しょうみ1ページ分くらいの進捗。毎日のように絵が描けないはなしをしてるんだけど、今日はたんじゅんに、描かなきゃならない線が多すぎて作業がはかどらなかった。一コマに3人から5人くらいの人物が収まるコマがページをまたいでつづいていて、それぞれの人物のポーズだとか立ち位置なんかを一から考えながら描くんで、ペンは割とひっきりなしに動いているんだけど結果がなかなか分量に反映しない。ただ、パースがわからない、運河が描けない、とかうんうん唸りながら机の前で白紙と睨めっこして時間がつぶれるよりかは、今日みたいにやることがたくさんあって時間が足りなかった、みたいなほうがぜんぜん楽しく一日をすごせる感じはある。できた原稿をあらためて眺めていても、そういうページのほうが、下手くそながら楽しく見返せる。
 人物とか視点のレイアウトをしていると、むかしすこしやっていたプラモデル作りの経験を思い出す。プラモっていってもいわゆるガンプラオンリーで、スケールモデルには手を出せなかったガンプラモデラーだったからジオラマなんかも作ったことはなかったんだけど、ジオラマとかヴィネットとかいった情景作品とマンガの中の人物の配置なんかは想像力の働き方においてちょっと似ていなくもないところがあるとは思う。一つの視点を切り取ってなるたけ効果的にできごとの全貌を一瞬で示そうとするところなんかは、ダイオラマビルダーの面目躍如って感じだろう。
 ただ、一瞬で動きやできごとの全部を、っていう発想はマンガの目指そうとする表現の一部にすぎないものだろうし、そういう感性の働かせ方っていうのはじっさいかなり古い感じのものなのかもしれない。高野文子の「棒がいっぽん」とかはぜんぜんそういう見せ方ではないし、むしろそういうような全体的な強い(場やできごとに対して支配的というか統括的というか)視線とはまったく正反対のところから仕事を開始した人だろうと思うし、ぜんたいにおもしろい作品を描くマンガ家はそういうところで勝負をしている人が多いようにも思う。(ジオラマを総括的な強い視線の代表みたいにして引き合いに出してしまったけど、もちろん個々の作品を現場視線で見ればけっしてそういうようなお手軽なはなしにはなっていないだろう。プラモ作りからはまったく離れちゃったから詳しいことは分からないし紹介もできないんで興味があればググってもらえばいいと思うけど、モグラで作品を発表していた「円形劇場」の人なんかの作品は、ダイオラマっていっても、文字通り、一目では把握できないものを目指して作品を制作していたように思う)。
 構図を一発でびしっと決める、みたいな視線のありかたが心地よく感じてしまう自分の感性がどのあたりからやってきているのかは、マンガに関していえば、それはやっぱり子どものころ読んだ手塚マンガの影響なんじゃないかと思う(とくに初期の丸っこい線の頃のやつが大好きだった)。手塚治虫だってもちろんそれだけの人じゃないんだろうけど、やっぱり手塚の絵はそういう感性に支えられてるところも大きかったんじゃないだろうか。これは何も調べず適当にいってる、放言のたぐいなんだけども。だいたい、自分の描く人物の輪郭なんかも基本、戦後の少年マンガみたいなものが下敷きになってるように思う。これにはたぶんわかりやすい理由があって、マンガ家になりたくていっしょけんけいになって手塚治虫の絵を模写していた小学生当時の癖が、長ーいブランクをへても、消えずになお手の動きの中に残りつづけていたってことなんだろうと思う。そういえば、学校のテストが終わって回収を待つまでの空き時間に、テスト用紙の裏にびっしりと、前の日に練習したアセチレン・ランプの絵を描いていたっていうなつかしい記憶がある。
 自分でマンガを描くことになったときに、出てきたものが、今現在おもしろいと思ってるような作品からの影響を受けていると同時に、50年代くらいのわりと古い地層からもやってきていることがちょっとおもしろいと思った。