下書き26日目


 25ページ目一コマ残し。運河沿いの夜道に人が歩いている、というそれだけの構図が描けずに、そのコマだけ残ってしまった。建物とか風景はほんとに描くのに困る。
 白いままの原稿用紙を見ていてもだめなんだけど、枠線を引いてコマをじっさいに配置してみると、描く直前まで、これどうしようか、どこから手をつければいいのか?ってほんとに途方に暮れていたものが、なんとなくコマの余白の中からこれがいいっていう候補になる線が何本か視覚に現われてきて、そこでじっさいにシャープペンでえいやってノリでシャッと一本線を引いてみると、もっと具体的に、これはぜんぜんダメとか、この線は惜しいけどもうちょっとこっちにきてもらいたい、だとかいった対案のようなものが出てくる。これが白紙みたいなまったくの空白の状態じゃどうにもだめで、コマの枠がすでにそこにあってくれて、その潜在的な(まだその時点じゃ影も形もない)絵の余白に向かって線が視覚的な感覚の中に浮かび上がってくるという感じがする。
 コマの枠もそのコマ単体じゃきっとそういうような働きをしてくれないはずで、ページの中にレイアウトされたその他のコマとの関係からそのコマが果たすべき役割のようなものが生じてくるような気もする。マンガの原稿用紙はA4ならA4で物理的な大きさの限界がきっちり決まってしまっているから、コマの大きさとかコマどうしの関係も相対的なものになる。コマが導きだしてくれる絵もそのコマどうしの関係とかリズム、サイズによってずいぶん左右されているだろう。だからネームの作業というものがだいじになってくるんだろう。ネームに描きこむ絵なんて棒人間ていどのもんで充分だし、ひょっとしたら絵すらいらないって人もいるんじゃないだろうか。じっさいにマンガを描いてみて、これは要するに、コマをじっさいに割ってみるってことが肝心なんじゃないかと感じた。潜在的なものを待機状態にするストレッチみたいのものとして、コマを割るっていうのは大切だなあと思った。(そして運河の絵は描けてない)。