下書き23日目


 22ページ終了、23ページの3コマ目まで。なにか進行のペースがとても低い水準で安定してきてしまってる気がする。まあいいけど。
 アカーキイが有力者のもとから追い出されて、吹雪の夜道をさまよいだす場面。魚眼レンズと広角レンズがまざってしまったような変なパースのついた絵ができあがった。変な、というより、たんじゅんに素人の描いた間違ってる絵になってるだろう。ネームの段階じゃこういう絵を描くつもりはまったくなかったんだけど、じっさいに手を動かしていたらこんな絵ができあがった。
 雪の中を外套を着こんだ人物が風にあおられながら進んでいくさまが歪んだレンズで捉えられている、というこの絵の図解的な読み方において、これは見る人が見ればすぐに山村浩二さんの「田舎医者」を思い起こすんじゃないだろうか。もちろん、こっちのマンガの絵は山村さんとは比べるまでもなくずっと下手くそなんだけど、実は描いている最中には自分ではそのことに気がつけなかった。自覚してなかったからってそこに影響がないなんてことはまったくないはずで、「田舎医者」は大好きな作品だし、じっさい今でも折にふれ繰り返し観かえしている作品でもある。
 問題は、どうして「田舎医者」のあの独特の歪んだ映像が、この場面のアカーキイの動きを描こうとしたとき、選択の余地なんかまるでなかったかのようにほとんど自動的に自分の中に現われたのか、ってことにあるように思う。ゴーゴリの原作では直截的にそんな描写をにおわすような箇所はないはずだ(アカーキイがうつろな意識で家までの道のりを歩いた、みたいな記述になっている)。
 あとづけで分析してみるに、たぶん自分は視覚的な効果をねらってああいう歪んだ視点を取り入れたのではなくて、そこでアカーキイの体が捉えられている粘性のとてもたかい流体の中でのどうしようもないもどかしさだとか、不自由さを表現しようとしていたように思う。この身体にまつわる感覚には個人的にすぐに心当たりがあって、それは以前よく見ていた夢の中で自分の体をおそっている感覚だったと気づいた。夢の中でしばしば、走り出しているのにぜんぜん走れない、まるで水か泥の中にでもつっこんでしまっているようで、体はありえないくらいの前傾姿勢で前のめりに進もうとしているんだけど、どうしても思うように動けない、そんな感覚を覚えることがよくあった。
 吹雪の向かい風の中を進むマンガの中のアカーキイは、まさにその夢の中の自分の姿勢そのまんまであることに、絵を描き終えてようやく気がついた。そして、描き終えて新たに気づいたことは、その地面すれすれに体を倒して前のめりになる姿勢が、歩いたり走ったりというような水平の前進運動を目指そうとしているよりも、これを素直に眺めるならば、むしろ、崖とか壁みたいな垂直に立つ何かに落っこちるのを恐れるみたいにして登頂しようとしている上昇する人物の姿に見える、ってことだった。そこで、むかしからよく見ていた自分のあの前へ進めない夢の正体がはじめてちょっと理解できた気がした。それは陳腐といえば陳腐で、あの夢は要するに、すごく幼児的で、ついでに言えば、まあ月並みにエロい願望を表現していたってことなんだろう。
 陳腐で月並みだから、そこから源泉を得ているこのつまらない絵を描き直そう、とかいうことじゃない。ぜんぜん逆で、自分の限界がここらへんにあるってことを何よりも雄弁に語ってくれている一コマの絵として、これを消去してしまうなんてことはありえない。それが山村浩二さんやあるいは高野文子さん、手塚治虫とかいった名前に代表される無数の人たちの作品や発想と、抜きがたく絡みついている、という意味で、これは自分の作品の、いわば私的なサインになっているはずだ。私的であることとは、ここではもう、法律的な問題の領域なんかよりもずっと深いところで、いわゆる剽窃だとか盗用とかと原理的に区別できないものになっていはしまいか(いっそうたちが悪いことに)。するとだから、「わたしは一人の偽ものだ」と宣言しなければならないこと、これは必然なんではないだろうか。
 おっかなくなってきたんでこのへんで話を切り上げる。さあ明日の作業だ。