下書き13日目


 12ページ目まで終えて、13ページの一コマ目まで。おおよそ2ページ分描けた。
 今日はアカーキイの勤める役所内部のモブシーンに手間取った。一度に集める人数はだいたい10人以内でおさめたんで、モブというとちょっと大げさか。
 初期の手塚マンガだとか杉浦茂の作品によく出てくるモブが大好きだったんで、時間はかかったけど今日は描いていて楽しかった。
 モブシーンとはどういうものか、というちゃんとした定義があるのかどうかは知らないけど、紙の上の広い空間に人がどさっと集まると、コマ割りが物語の時間にそって運行してきた(視線をかどわかすみたいにして作り上げてきた)正しい順序が、そのときその場でバラバラにほどけていくみたいな感じがする。物語を正しい文法で語ることだとか、時間を視線に寄りそわせる技術の繊細さみたいなものが、モブが描かれて読まれるその間パチンとはじけてしまって、無秩序な喧騒状態が底の方から浮き上がってくるという感じ。
 そういう意味じゃ、マンガを構成するあれやこれやの場面を描くひとつとしてモブがあるんじゃなくて、モブこそがマンガの絵の基底により近く条件づけられたものだといっていいのかもしれない。仮にマンガのページを区画するコマの枠線のいっさいを消してしまったとすると、ページ全体がモブとほぼ変わらない外観を呈することになってしまうだろう。そのとき、まだマンガはマンガとして読まれることができるはすだ。(現にモブシーンが視線の誘導ぬきに自由に読まれるように)。
 マンガから枠線を(とはつまり、時間的な秩序を、物語を、ということだけど)消してしまうことは可能だけど、また、消してしまった後にもなお、個々の形象を描く絵さえ残っていれば、モブ的な何かの集積は紙のうえに残りつづける。
 逆に、マンガのページからすべての形象を消してしまって吹き出しだとか枠線しか残さないとすれば、その紙はもはや、厳密にはマンガのために用立てられた紙とはいえなくなるだろう。(かなり読みづらいシナリオ作品みたいなものにすぎなくなってしまうだろう)。モブシーンはマンガを形づくるいくつかの条件の中でも、とりわけ絵としての条件において、すごく根っこに近いところにあるもののように思う。
 しかしそういう訳あいからいえば、今日描いた場面は、あからさまに読み手の視線をアカーキイという物語的に特別な資格をもっている一人物に集中させようという意図がこめられているので、これは手塚や杉浦茂の描いたモブとはだいぶことなるものだといえる。にもかかわらず、モブはやっぱりマンガの絵の根っこにあるものだという点はくつがえらないだろうけど。
 個別のモブシーンよりもさらに深いところで、さらに大掛かりに、しかもさらに静かに目立たず、なおかつさらにあからさまに隠れることなく、より大きなモブの魂みたいなものがマンガに活力を吹きこみつづけている、ということなんだと思う。
 そこから結論されることは、モブシーンはけっして描くことができないということ(それはむしろ描かせるものだということ)、そしてしかし、マンガが存在するときには余剰物みたいにしていつでもどこでも、かならず、モブシーンがすでに描かれてしまっている、ということだろう。手塚や杉浦茂のモブシーンの格別のおもしろさには、この条件と条件づけられたものとのちょっと入り組んだ関係の、とても素直な問題化という側面も含まれてるんじゃないだろうか。