下書き9日目


 9ページ目ほぼ終了。一コマ残し。
 1ルーブルは100カペイカ! 昨日の調べものの成果。……うん、それは薄々気づいてたよね。ぶっちゃけ取り立ててマンガに組み込まなきゃならないような事がらはなかった。アカーキイの貯えが40ルーブルで、かける100の、計硬貨4000枚分とかの描写が必要かと思ったんだけど、大きい銀貨に換えて貯めてるってことが分かったのが、収穫といえば収穫だった。
 19世紀のロシアの貨幣のことだとか物価のありかたなんかについて情報としていろいろと知っておくことは悪いことじゃないとは思うけど、それを作品の中でふれることがないんだとしたら、そりゃ作品における説話的な価値関係の中ではゼロに等しいものだろう。

 ……ちょっと脱線。調べてるけど、知ってるけど、設定してるけど、そこをあえて語らないところに作品世界へのドスがきいているわけです、えもいわれぬ精妙さがジュワーっと滲み出てくるわけです(キリッ、みたいな通俗的自然主義への寄りかかりがものすごくつまらないものにみえてしまうのは、ゾラだとか高野文子だとか、あるいは三好銀の作品なんかの桁外れなありかたに、まがりなりにも一度は手痛く打ちのめされたおかげだなあと、つくづく思う。
 それは、10あるうちの1だけほのめかして、ほら、きみが見えない(わたしが語っていない)背後にはまだ残り9もあるんだぜ、とかいう算数以前のごくごくみみっちい世界のおはなしなんかではなくて、その10が語られていくうちに20にも30にも膨れ上がっていってしまうような怪物じみた自然主義、とか、一本の線の存在が引き算の結果としてあるんじゃなくて(10−9の結果として1が導かれるんじゃなくて)、その1が同時にどうしようもなくゼロに取り憑かれてしまっていたり、いくら足していっても10にならない狂った計算をはじめたりとかいった幽霊的な反自然主義、みたいな世界が、たしかにある。
インチキな教祖志願者のけちな妄想なんかあとかたもなく吹っ飛んでいってしまうような強度が、彼らの作品にはまちがいなく潜んでいる。それは信じるとか信じないとかじゃなくて、たんに事実なんだけどな、とつくづく思う。

……脱線したまま終わってしまう。