表紙下書き

 原稿の読み込みの仕方から閾値の取り方まで、コミスタでの下準備の手順をすっかり忘れてしまっているので、今日は絵に関しては何もしないことにするつもりだったんだけど、そういや表紙を描いてもいいかなと思い立ちちょっとだけ手をつけた。

 4ページのカット絵冊子程度のものに表紙もなんもあったもんじゃないけど。こうして描いてみるとやっぱり下書きのこのくらいの段階が作業的にいちばん楽しいし、自分なりに絵としても満足のいく出来ではある。これがペン入れから仕上げへと段階が進むにつれてみすぼらしいものになっていってしまうのは、何度も経験してるけれど何とも無惨だ。
 結局は、自分のもつ可能性に期待してるから現実に落胆してしまうんだろうと思う。自分の可能性に対して過大な、ちょっと身の程知らずな程度の期待をどこかで抱いているから、落胆もその分だけ大きくなるんだろう。しかし、どうも資質的に自分は真底からくる絶望とかニヒリスム的な心情に落ち込むことができないような性分に出来上がっていて、これはこの先も、絵を描くにつけても文章を綴るにつけても、どこまでいっても小さな期待と落胆を繰り返していくことになるんだろうという予感がする。期待は分不相応な夢想から、落胆は現実に形づくられたものから、交互にやってくる。
 つまり人生とは基本、負け戦だな。負け戦の連続を途中で中断せずに、ここで生きることの広がり、自分が生きるこの地平そのものにまで延ばしてぴったりと重ね合わせていくことだけがたったひとつの課題なんだろう。それは「逃げちゃダメだ」とかいう自分を無理やり鼓舞するような勇ましい、涙ぐましい号令なんかとはもはやぜんぜん関係なくて、この敗走の全過程だけがたぶん抽象的に人生とか言われるものの具体的な実質に違いない。それはネガティブなものでは全然ない、とそんな気もする。なぜなら生きることと敗れることが分離できないまでにすでに一体化してしまったんだから、ある意味そこを走りつづけていくことほどポジティブでカラッカラに乾燥したものはない、とも言えるだろう。自分の生き方なんだから腹をくくってこれからもこうして生きて、そうしてあるときぱったりと死ねばいい。それだけのことだろう。……と、こうして書くと辛気臭く聞えるかもしれないけど、そういうものではないんだよってことは言っておきたい。たとえば見知らぬ土地を一人だけで歩いて道に迷うということの、その贅沢さのようなものの微かな輝きが、ちょっとでも感じていただけるだろうか? ちょっとだけでも想像していただけるだろうか? そういうことが言いたかったんです。イェ〜イ!