クリストファー・ノーラン監督『ダークナイト』

 DVD版を購入。勢いづいて3回鑑賞。評判どおりジョーカーがいい。凄くいい。惚れ惚れするような純粋な悪としての魅力がたっぷりなんだけど、悪ってかむしろ、全篇通じて最初から最後まで、夢中になって遊びに興じてる子どものようにも見える。そういうものと見分けがつかない。
 オープニングの銀行強盗の場面からしてババ抜きみたいで皮肉が効いてる(場面から一人ずつ仲間が退場=殺害されてって、最後に一人残るのが文字通り、「ジョーカー」。勝敗の基準が真逆に裏返されたババ抜き遊びってわけだ)。バットマンや検察、市警のみならず全市民一人漏らさず巻き込んでゴッサムティー全土を舞台に演じられる壮大で残酷、容赦なく破壊的で全面包囲的な、しかしそれじたいは本質的に鬼ごっこやケイドロ、隠れんぼといった遊びのたぐいとなんら異なるところのない底抜けな犯罪の創出が遊戯者ジョーカーの天才。爆破し炎上する病院建物をバックにテクテク歩き出すジョーカーの表情の可笑しさ、奇妙な愛らしさ、稚気たっぷりの軽妙な仕草はちょっと忘れがたい。二隻の船舶の爆破ジレンマやレイチェルとデントの同時殺害を予告して命の二者択一を迫る「あれか、でなければこれか、さあどっちを選ぶ?」っていう選択ごっこなんかも子どもの好きなシチュエーション遊びの一つだろう(その強いられた選択に対して、どっちも選ばない、または、どっちも選ぶっていう卓袱台返しの回答を示すバットマンや市民の高潔で倫理的な姿勢は、ジョーカーや子どもたちの世界ではいちばんやっちゃいけないことの一つに数えられる筈だ)。ここには子どもの喜びそうなあらゆる遊びの骨格がジョーカーによって網羅されてるようにも思う。鬼ごっこやある種の球技、変装ごっこやスパイごっこ、殴り合い、陣取り合戦、騙し打ちや言葉遊び、あるいは謎かけや縄跳び、睨めっこといったごっこ遊びの犯罪的形態の数々。
 本来ある明確な一個の目的のための無数にある手段、そのうちの一手段であるにすぎないように思われる行為がそれじたいとして目的となってしまうところに、あの、遊びの楽しみに固有の、手を変え品を変えて延々と改変されていく終わりの先延ばしがあるようにも思われる(金が欲しいから銀行破りをするんじゃなくて、今や銀行破りという行為それじたいが目的となって、以下無限連鎖的に同様の楽しみ、犯罪が追求されることになる)。終わりの無さ、目的の無化だけが逆説的にかろうじて目的とみなされる、みたいな(テロスを放り出したテロル、みたいな)。
 あるいは同じことだろうけど、動機や原因のあるべき場所の空っぽさとか。Why so serious? 『なんでお前はそんな深刻なツラしてるんだ?』。もともとトラウマや原因の無かった場所にジョーカーがそのナイフで深々とスラッシュを刻む際の「為にする」決まり文句。血塗れの睨めっこに託けられた偽装定式。傷やトラウマ的な体験がジョ−カーという犯罪者主体に先行しているんじゃなくて、その犯罪にはどのような目的も動機もあらかじめ居場所をもたないことを証するため、(たとえば、トゥーフェイスの脆さ、傷つきやすさとは好対照な)決して傷つかない身体がここにあることを何度でも再確認するため、そのためだけに繰り返される新たな創傷の創出。
  そして、つまりたぶん、ジョーカーは転移しない。彼が人を転移させる。彼の哲学や信条、思想といったものを勝手に忖度しておのずから何事かを語り始めてしまうのはつねに私たちの側の仕事となるだろう。ジョーカーは転移しない(『アンタ俺の親父に似てるな』?  ……空恐ろしいジョークだ)。
 彼ご執心のバットマンはひょっとしたらジョーカーの「フェティッシュ」といったものに似すぎているか? あるいはそうなのかもしれない。ありそうもないことだけど、マスクと素顔、ヒーローと一市民の狭間で現れたり姿を消したりを繰り返す糸巻き駒のようなバットマン/ブルース・ウェインの存在と不在は、ジョーカーの受けた傷のなにがしかの補償として遠くでどこかへと繋がっているのかもしれない。もちろん、そんなことはこの映画を観た誰にも証明などできない。ひとつだけ確かなのは、バットマンがジョーカーの糸巻きとして恰好の遊びの対象であるってことだけ。執拗につきまとうことによって手なずけなきゃならない不安や恐怖の形象なんかじゃなく、贅沢な恵みもののような玩具、としてのバットマン。おそらく。
 ジョーカーの尽きることのない豪奢な遊び、その天才的手腕の数々、それらを目撃することの愉快さが『ダークナイト』をますます輝かせる。
 HA HA HA HA HA。